HPLC誕生秘話(ジェームス・L・ウォーターズ博士は何故HPLCを創ったのか)

1970年後半から1980年代のHPLC市場は、低分子分離計測として多くの化学産業分野で拡散されたが,その中でも市場成長を促進させたのは医薬開発分野で、その成長は目を見張るものがあった。装置を開発し製造する各メーカーも,島津製作所,日立,日本分光,東洋曹達(現:東ソー),日本電子,柳本製作所などの国産企業と,海外企業としてウォーターズ,デュポン,ベックマン,バリアン,ヒューレットパッカード,そしてIBMまでがHPLCを開発し市場で競争していた。

中でも市場シェアの先端を走っていたのは,米国ベンチャー企業ウォーターズアソシエイツ社だった。ウォーターズ社の創設者ジェームス ・L・ウォーターズ博士は,物理学者でありながら,自宅ガレージで示差屈折計を製造し販売していたが,もともと野心家でもあったのか,他に何か儲かる商売がないか探索していた。

1958年,ジェームス・L・ウォーターズ博士は、屈折計の開発とガスクロマトグラフィーの開発でベンチャー企業ウィーターズアソシエイツ社を設立した。設立後まもなく妹の結婚式パーティーに参加した彼は,テーブルで隣になったMITの友人からある事を耳にすることになる。それは,高速液体クロマトグラフィーの誕生が今後の市場を牽引するかもしれないという話だった。この話に大変な興味をいだいたウォーターズ博士は,高分子ポリマーの分子量分布分析測定手段としてGPC(Gel Permeation Chromatography)/ゲルろ過クロマト装置を考案し,1号機GPC100型を1962年に世に送り出した。

1950年マーチンらによりシリカ担体を用いる逆相分配クロマト充填剤が開発されるが,その後1970年代にはいると急速にその性能が進歩し,HPLC用逆相分配カラム応用が拡大する時代を迎えた。そして1970年代後半、ウォーターズ社は自社が保有する応用データの豊富さから世界でトップシェアを誇るまでを、短期間に上りつめる事になる。まさにアメリカンドリームの代表的1例だった。ウォーターズ社は,その後1980年に米国ミリポア社に買収されたが,買収直後にミリポア社首脳陣の数人が飛行機(セスナ)事故で全員亡くなり,事業の方向性を失い,1994年頃には再度独立して現在に至っている。ウォーターズ博士は,後にスクールバス供給会社など数多くのベンチャー企業を立ち上げ,また若い技術者の育成に向けて財団を築き分析の世界に貢献している。

PROFILE

岩瀬 壽 氏

一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。

トップページへ