20世紀末、科学技術は生命科学領域で計り知れない進歩を成し遂げました。ヒトゲノム解読終了宣言は、私達人類にとって宇宙計画による月面着陸同様の大きな成果と言われていました。20世紀という100年間で私達は多くの病気と闘い、抗生物質の発明などの薬の開発と医療の進歩に貢献してきました。
しかしながら、文明進化に伴う環境変化はさらに多くの難病を生み出し、自然界から大きくかけ離れ、文明世界から創作された世界に生きるようになってしまったと云っても過言では無い状況です。
ゲノムを知るという事は、このような疾病や難病などを治すための創薬開発が進展するという事で、その意義は大変重要ですが、一方で現代の生命科学は病気にならないための仕組みを理解するという、もう一つの重要な課題が浮上してきたともいえます。細胞内における発現解析、蛋白質機能解析などによる細胞メカニズムの解析は、ヒトの体という生命科学ばかりでなく、食品、農林畜産、海洋および環境にいたるまでの大きな産業を創造可能であり、現在世界のバイオ市場が同一のベクトルをもって産業創出に科学のメスをいれようとしているのです。
21世紀を24年経過した現在、細胞科学や組織科学はシグナル伝達系の解明や、再生医療の方向へ進化し始めています。真の再生医療とは、生命の自己修復能力を解明する科学であり、まさに医療と健康に架橋を生む新しい科学と言えます。もう一つの発展は私達の生活でも身近な存在でもある情報革命にあります。
IT革命は携帯電話を生み出し、バイオをコンピューター上にてシュミレーションするBioInformaticsを加速してきましたが、現在はIoT(Internet of Things)やさらなるインフラ革命を起こしつつあるのです。これは将来、健康維持への医科学に発展し、さらに地球が毎年狭くなる想いを人類に与えることは間違いありません。
しかしながら、まだまだ解らない事実はたくさんあります。人間の気や睡眠、想い、感情などがこれにあたります。アナログとデジタルという言葉も20世紀に誕生した言葉でしょうが、21世紀を健康で生き抜くために、アナログとデジタルのバランスを私達はもう一度見直し、私達の生きる世界の中で科学をもって住み良い地球にすべく努力したいものです。
古典バイオからの出発
日本におけるバイオ産業を振り返ってみると、古くから米、味噌、醤油、酒の国であり、発酵技術は世界に先駆ける食材の特徴と伝統を維持してきました。日本の古典的バイオテクノロジーとは、古い昔から微生物を応用して食品を開発してきていた事実が存在しているのです。そして戦後バイオリアクターとして世界で最初に産業として成功したのは、微生物によるアクリルニトリル産生用プロセス工学を成功させた日東化学社(現:三菱レイヨン)でした。そして植物バイオ研究が発達し、組み換技術が進化する中で、日本は遺伝子組み換への科学的効果を一般国民に対して「危険性」という強烈な印象を与えたまま過ごしてしまい、世界とは異なる状況としてバイオサイエンスの重要性に足枷をはめた時代が長く続くのです。
近年のポストゲノム時代においては、蛋白質技術は欠かすことができず、発酵から生まれる伝統ある蛋白質技術を最新鋭のテクノロジーに利用するノウハウは必須とされるでしょう。そして我が国における歴史ある分析計測技術や産業に存在する匠力を土台にし、さらなる先端バイオ関連機器市場を創出可能にし、最先端の医療ばかりでなく最先端の未病領域、つまり健康維持科学に大きく貢献する時代が到来すると考えられます。そしてフードサイエンスやスポーツサイエンスを通して大きくヘルスサイエンスイノベーションへと発展し、国内関連企業と研究者がより可能性あるアライアンスを以てグローバルな状況下でJapan as No1を目指さなければならないのです。しかしながら、その古典的バイオ立国である日本は、1980年代に国策として計画されたヒトゲノム解読手法開発のプロジェクトを境にして、大きく欧米の産学間連携計画に引き離されてしまう事になります。
生体高分子のメカニズムを探る時代
1987年夏、私はボストン郊外にてDNA合成装置のトレーニングで渡米しました。当時私の所属していたミリポア社は事業拡大に向けてウォーターズ社を買収し、その直後にバイオサイエンス市場参入を目的として小さなベンチャー企業を数社買収してミリジェン事業部という社内ベンチャーを設立しました。その事業部で最初に発売された製品がDNA合成装置でした。当時DNA合成装置を開発していた企業は、国内3社、海外5社ほどあり、ミリポア社は後発として市場参入したのです。
マサチューセッツ州ベッドフォード本社に隣接したラボは、自由な雰囲気で日本企業にある雰囲気とはまったく異なる夢のような空間に感動した記憶が今でも鮮明に残っています。最初に紹介されたラボに入ると、目の前にある装置は電気冷蔵庫ほどの大きな装置で、コントロール用のコンピューターはAppleII、画面はグリーンで、A,C,G,Tと声をだしてコンピュータが喋っていました。当時の技術開発担当マネージャー:アレックス・ボナー博士は、「MIT(マサチューセッツ工科大学)でデモ機を貸出中で、データをとっている。日本人が多い研究室だから紹介しよう」と言って親切に私を案内してくれました。

1986年 ミリポア社ウォータズ事業部本社にての筆者
そこはノーベル賞受賞者利根川進研究室で、教授の右腕として従事されていた高垣洋太郎博士から、誠に丁寧に固相DNA合成のメカニズムを教えていただきました。当時は、固定相をベースに表面を修飾し、DNAモノマーを順次合成していく方法が取り入れられ、ペプチド合成や蛋白質のシーケンサーにも応用され始めた時代でした。固相法は自動化しやすいという利点があり、各社が表面化学修飾と反応化学を駆使して装置開発を急いでいたものです。DNA合成では、燐酸トリエステル法からメトキシアミダイド法が誕生し、さらに1年後のこの基本特許の発展型としてのベータシアノエチルアミダイト法が開発され、ハンブルグ大学(ドイツ)のヒューベルト・ケスター教授起案によるケスター特許と基本特許であるカルーザス特許(米国)の法廷闘争は初期のバイオツール時代の幕開けにて有名な話題として騒がれていました。当時のDNA合成時間は1サイクル17分、受託合成費用は1カップリング合成するのに5,000円もかかりましたが、それでも驚異的な進歩でした。
現在の合成が1カップリング100円を遥かに切る事を考えると、これもまた急速な進歩であったのでしょう。ペプチド合成は当時tBOC法によるバッチ式固相合成法が主流でフッ化水素を使用する危険性があり、さらにマイルドな溶媒を使用するカラム固相合成法であるFmoc法に切り替わりつつありました。高速液体クロマトグラフィーのカラム分離技術が、固相反応を利用した混合物精密分離手段であることを考えると、良く似た発想での固相合成反応手法がバイオ技術を加速した時代であったといえます。
プロテインシーケンサーは当初固相に蛋白質酵素消化したペプチドフラグメントを固定し、エドマン反応を利用してN末端側からアミノ酸配列を決定していました。しかしながら、高感度化が要求する中で、不純物の除去が困難になり、気相状態の反応試薬を用いて蛋白質のN末端エドマン反応を利用する工夫がされ、自動化装置を考案してバイオベンチャーを創設したのがマイクハンキャピラー博士率いるアプライドバイオシステムズ社(現在は吸収合併等を繰り返し、サーモフィッシャー社、エービーサイエクス社に変貌)創設のきっかけになっています。当時はガスフェーズプロテインシーケンサーと言われ、バイオサイエンス支援技術のパイオニアとして市場を専有したものです。当時、スピニングカップ液相法を応用したプロテインシーケンサーを市販していた国内企業は、たった1年で全てこのガスフェース応用装置に屈服し、市場から姿を消してしまったほどの革命だったかと思います。当時を回想して今思う事は、米国企業はユーザー(研究者)の本当のニーズを理解しようと努力し、そのニーズに合う装置デザインを心がけていたかと思います。これに比べて国内企業は、分析機器企業としてハード開発を常に優先におき、アプリケーションとしてのユーザーニーズの方向性を見極めていなかったかと考えます。この企業スタイルは日本企業の場合、現在でも技術開発陣営の中に見え隠れし、特にバイオサイエンス市場においては顕著ではないかと考えられます。
日本発の遺伝子解析プロジェクト
1980年代後半におけるPCR法(Polymerase Chain Reaction/ポリメラーゼ連鎖反応)の発明によりDNAの科学は飛躍的進歩をしましたが、中でも大きな進化がなされたのがDNAシーケンサーと呼ばれるDNA塩基配列を読む装置の開発でした。PCR法によりDNA切片を増幅できるので、極微小量サンプルでも量を増やすことができます。DNAシーケンサーは当初1970年代後半に開発されたマキサム・ギルバート法という化学法が主体でしたが、その後サンガー法という酵素を使用するダイデオキシ法に切り替わり、この手法改革にPCRの出現は大きく関与し、技術革新を起こすことになります。
実はこれらの手法は日本でも開発が進められており、1980年代林原研究所が主体で世界初のゲノム科学フォーラムが日本で開催され、これに先駆けて1987年当時東大理学部長・和田昭允教授がネイチャー誌に論文を寄稿し、下記のようなコメントをされています。
「大国が競って巨大な望遠鏡を作るように、二十一世紀、各国がゲノムセンターを建設するだろう。それが国の力、知識を示すシンボルになる」 一九八七年の英科学誌ネイチャー。米国がヒトゲノム解読を本格化させる三年以上前の論文だ。遺伝情報の解読は当時、ほとんどが手作業。根気と手間がいった。
東大教授だった和田所長は、自動解読装置を備えた各国のセンターが生命の秘密を解き明かす現在を予感、自身も世界に先駆けて装置の開発計画を率いていた。なのに成果を生かす土壌は国内になく、特許も取らずじまいに終わった。「われわれに反応したのは、米国や英国だけ。その米国が今、世界の先端にいる」と、先見性がいかに重要か強調する。
サンガー法を利用したDNAシーケンサーはキャピラリー電気泳動を駆使してマルチチャネル装置が開発されはじめていました。この検出法に横型レーザ検出法が効果を高め、これも国内大学からの発明と日立製作所の技術から成り立ち、製品開発が進められていたのです。当時、国内では和田昭允先生が主張される「生命を測る」プロジェクトとして、ヒト遺伝子解析法を開発するため、当時の通産省が主体となり日立製作所、セイコー電子、富士フイルム、三井情報開発、東ソーなどの民間企業を加えた産学連携企画が発足しました。当時はマキサム・ギルバート法による大掛かりな自動化開発が主体として進められ、海外からも注目されていました。ロングキャストゲルと云われる高さのある大きな電気泳動ゲル板の開発や、フイルムスタイルのゲル材料開発、さらには自動化のためのロボット開発など日本の技術が優位になる多くの開発が存在しました。しかしながら、サンガー法の出現により5年間の開発は最終的には全て海外に敗北してしまう結果となります。この中で開発が進んだ検出法や自動化装置に組み込まれる部品や基盤の多くは日本製でした。
ここで言えるのは、技術開発のうち電気系、精密加工、物理化学領域は日本発にも関わらず、最終製品ブランドはMade in USAだったのです。キャピラリー電気泳動法を搭載したDNAシーケンサー開発はさらに米国で急速に発展し、後にアプライドバイオシステムズ社(ABI社)は日立製作所とのアライアンス契約から製造を日立社に委託し、ダブルブランドでDNAシーケンサーを発売することになりますが、消費者の大半がこの事実を知らないまま「バイオで勝ったのは米国、日本は負け組」と口を揃えて云われる事になります。

ゲノム敗北―知財立国日本が危ない!岸 宣仁 (著)
1990年後半、私はNPO法人ゲノムベイ東京協議会理事として産学官連携会議に出席した際、某政府筋の方が「予算をつけてもまた米国製を購入するのに使用されるのでは?」という意見が出たのに対し、参加者から誰も反論がでないのに唖然とした記憶があります。当然、私はそれに反論し、「今のご意見は具体的にどういう事でしょうか? 何を指してそう言われているのですか?その根拠は? 装置内の半分以上が日本製だとご存知ですか?」と言い切りました。これに対する回答は皆無で、シーンとしてその場は終結。これが我が国上層部の知る実態であったのです。
(次号へ続く)

岩瀬 壽 氏
一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。
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