バイオ研究4種の神器
1990年代に入ると当時日本の研究機関では、バイオ研究支援機器を“4種の神器”として必需品扱いしていました。4種の神器とは、DNAシーケンサー、DNA合成機(DNAシンセサイザー)、プロテインシーケンサー、ペプチド合成機(ペプチドシンセサイザー)の事を指します。要は生体高分子としてのDNAと蛋白質の配列分子を読み取り、これを化学合成するという単純な発想であり、バイオへの登竜門であったと言えましょう。しかしながら、消耗品コストがかかり過ぎ、労力もかかるため合成機はなかなか使いこなせませんでした。
当時ミリポア社でバイオサイエンス事業部に在籍していた私は、業界トップを走るABI社(Applied Biosystems Inc.)にどうしても勝つことができず悩んでいました。あるときトレーニングで渡米していた際、現地の仲間とビールを飲みながら妙な話題を耳にしました。
米国では大きな大学や製薬企業ではコアラボと呼ばれる共同研究施設があり、合成化学専門家やサービスエンジニアが常駐して効率の良い化学合成サービスをしており、このシステムが拡大して独自の技術を有する受託ベンチャー企業が出来始めているというのです。米国ではテクニシャンと呼ばれる技術師は、専門領域で匠のように評価され、博士(Ph.D.)としての研究者と友好的パートナー的存在で高く評価され、効率の高い実験プログラムを計画し実施しています。私はこの話を聞きピンと来ました。
「そうだ、機器で勝てなければ試薬のシェアを半分とろう」そして、帰国してすぐに地方販売店数社にDNA受託ラボ計画をもちかけ、数社から人員を預かりラボで使い方を2~3ヶ月実施教育して、デモ機を割安で購入してもらい全国レベルの受託DNA合成チャネルを創設したのです。計画はみごとに成功し、3年間で全国14件の受託サイトに合成試薬を拡販し、1年後にはシェア50%を獲得できたのです。今になって回想すると現在のCRO(Contract Research Lab.)の走りであったかもしれません。

Expedite DNAシンセサイザー
その間ミリポア社はカリフォルニアのバイオサーチ社を買収し、協業力ある小型DNAシンセサイザーを手にいれて、装置販売も軌道にのってきたのです。バイオサーチ社の小型DNAシンセサイザー“Cyclone”は評判がよく、累計400台以上を国内納入、競合のABI社装置とあわせて約1,200台が国内に納入されたと予測します。
その後、私に米国DNA合成ベンチャーの話をしてくれたティム・マグラス氏はテキサス州のDNA合成ベンチャー:ジェノシス・バイオテクノロジー社のCEO(最高経営責任者)として引き抜かれ、独自の合成機を考案して米国シェアNo.1となりました。
米国ベンチャー企業の凄いところは、独自の技術があり社内に封じ込めた方がビジネス上得策と判断したものは、徹底的に外へは出さず、そのノウハウを売り物にするというビジネスモデルを優先して活用していたのです。
米国人はビジネスを大きな空間的視点で読み取ることができ、技術+経営の先読み能力があるという事になります。つまり、ビジネスモデルを考案する際に、常に外部の動きを読みとり、経営的計算できる力量をエンジニア自信が身につけているという事なのでしょう。そして、この時代に巻き起こるDNA解析研究の先読みは、1980年代後半から始まっていた製薬企業再編成によるビックファーマ時代への幕開けとして継っていく事になるのです。
テキサス州 ジェノシステクノロジー社との出会い
前項におけるテキサス州ジェノシステクノロジー社は、ティム・マグラス氏がミリポア社を退社し、ジェネティックデザイン社名の立て直しのためにCEOとして就任し、名称を変更したDNA合成受託ベンチャー企業でした。
ティムはベックマン社からミリポア社ミリジェン事業部に移籍し、私が最初に出会ったのはボストン郊外ベッドフォードにある小さなガレッジ倉庫のような佇まいのベンチャー事業部のコーヒールームでした。彼はアメリカ人には珍しくスーツにネクタイをして、新聞を読んでいました。いつもニコニコしていて、髪はケネディーカット(7:3に分けたジョン・エフ・ケネディーの髪型をそう呼ばれた時代がありました)で、いかにも営業マンでした。ワールドワイドセールス会議ではいつも明るく、また常にセールス成績はトップだったと思います。
ティムは5年間ミリポア社に在籍し、ベンチャー企業の立て直しでスカウトされたのです。彼の退職後もよく連絡はとりあっていました。
1992年の春に来日した際、連絡があり東京で会いたいというメッセージがありました。
東京で再開すると、彼はこう切り出しました。「今、DNA合成工場を準備中なんだけど、まずは北米、その次に欧州を考えている。それが成功したら日本に進出したいのでサポートしてもらえないだろうか」私は当然OKのサインを。
そして2年後の1994年夏にティムから連絡があり、その約束を果たしたいと連絡が来ました。
ところがその時期はちょうど私たちの所属するミリポア社バイオサイエンス事業部が売却され、パーセプティブ社に買収されて事業を引き継ぐ事が決定した直後だったのです。やむなく事情を説明し、参加できない旨は伝えましたが、ティム氏の希望を叶えたいという意思は強くありましたので、彼らの希望を聞き、誘導できるまでサポートしようと考えました。
そして本業のパーセプティブ社起業準備を開始する一方で、国内パートナーとして事業成功への道筋を切り開ける人物探索を開始し、北海道のM氏をテキサスへ連れてゆくことになります。この行動が将来のDNAプライマー合成の画期的成功と日本の遺伝子解析研究に大きく貢献するビジネス側の成功的支援事業であったと信じています。
日米ビジネスセンスの競争
分析機器やバイオ研究支援機器の場合、製造能力や品質管理、バリデーション力、仕上がりの良さや歩留まりの精度と感性は、日本製と米国製には大きな差があります。
今でこそ日本人の製造管理能力やデザイン性は高く評価されていますが、1980年代はまだ米国人にとって日本での製造を認めたくない文化があり、特に東海岸企業には多くそれが見受けられたように記憶しています。
ところが、競合相手のABI社は本社をカリフォルニアに置く企業で、製品のデザインには特別に光るものがありました。デザインはもちろん、チューブ配線や電気系、サービスのメンテナンス性まで考慮されていました。
バイオ研究者が製品を選択する際、重要なのは“データが本当に出るのか?”“カタログデータは国内で取られたものなのか”“自分のサンプルでデータが取れるのか”という疑問が優先されて、メカニズムや機能、原理にはまったく興味がありません。あとは価格とデザインがいかにカッコ良いかになります。
当時の米国東海岸企業のほとんどが、機能優先で西海岸企業にマーケティング的に劣っていたと言えます。この傾向は特にバイオサイエンス研究支援機器ユーザーには顕著で、通常の化学物質計測における分析機器を利用する市場でのユーザーとは大きな差がありました。
何故ならば、分析化学を専攻するユーザーは基本原理を追求しますが、バイオ系ユーザーは機器を単純にツール(道具)としてしかみないからです。私達が腕時計を購入する際に、中身の原理に興味はなく、「いかにみやすいか」または「いかにデザインが良いか」などに注目して購入するのと同じ視点なのです。しかも、米国工場では工場作業員はドーナッツを囓りながら、ロック音楽をガンガン流しながら仕事をしています。工場の片隅にはダーツゲームがあり、10時の休憩には、工場の外に毎日来るスイーツ専門の移動販売車に群がります。当時、米国から届いた製品のダンボールを開けると、ドライバーが入っていたり、パンの欠片が落ちていたり、ひどい場合は時には装置内のリボンケーブルに外枠を止めるネジが食い込んで、無理やり止めてあったケースさえありました。それでも、「何故売れない?何故また負けた?」という本社アジア担当営業マネージャーに対して、常に言い訳で武装しなければなりません。
西海岸企業であるバイオサーチ社を買収し、“Cyclone”DNA合成機を手にいれる以前のある時、四半期末に来日した日本担当営業マネージャーに勝敗率を問いただされました。私の居たミリポア社製品は東海岸企業で、納入実績・デザイン・アプリケーション・価格で大きく競合他社に遅れをとっており、勝負結果は酷いものでした。
それでも米国人マネージャーは言いました。“勝負は機能でしろ、デザインなんて関係ない”
頭に血が上った私は、こう切り返しました。
“わかった、では和菓子屋に行こう” “Why Not?”
“いいから。。。。”
私はその米国人を和菓子屋に連れて行き、問いました。
“この中で、一番美味しそうな和菓子と不味そうな和菓子を決めて購入してください”
彼が選んだ美味しそうな和菓子は鮮やかな花をデザインした落雁をもとにしたもの。不味そうな1品は真っ黒な羊羹でした。
「2つ並べて、食べてみなさい」
落雁はパサパサで口に粘り付き外人には当然ショウに合わず、まずそうな羊羹は黒砂糖でマロヤカ。
「ほらね、始めて経験する購買者は、美しそうなものを選択するのです。分析機器やバイオ機器もそうでしょ?分析人は分析したい対象や分析プロトコールを理解しているので理論が重要でしょうが、バイオ研究者はほとんどが初めての装置を購入します。中身の原理に興味は無く、良いデーターが出るかどうかしか興味がないんです。」
当時の米国では工場での工員とビジネスマネージャーでは格が違い、給与も大きく異なっていました。要はコストを抑えるためには仕方ないという判断です。日本企業のように製造の質を高めて、返品率を減らし、またサービス効率もあげるという総合力は無かったと言えます。現在はその状況は製造国などがアジア諸国に移り、状況の違いもあり大きく変化していると思います。
私が在籍していた米国企業では、小さく始動するプロジェクトでも、ベンチャー要素がある場合、設計から製造まで少人数でこなします。販売開始まもない製品の場合、その製品がユーザーに届いた後から起こる問題をその都度改良してゆきます。つまり最終製品になる以前のベーター版を販売してしまうのです。そこが米国企業と日本企業の違いでもあるのかもしれません。特に研究用に使用される新規技術を搭載されている製品の場合、技術変革のスピードが顕著であり、このような環境をみてきたのかもしれません。ユーザーもまたその状況を知っており、最終的に新しいバージョンと交換してくれれば、それで満足します。ところが、日本の場合そうはいきません。日本がバイオ機器競争で遅れをとったのもそんな最終バージョンまで販売開始しないというカルチャーと急激な技術競争の中で、ユーザー意見を取り込む真のマーケティング構想が弱かったのではないでしょうか? イヤ、ビジネスセンスという感性教育の違いなのかもしれません。
米国ビジネスゲームの幕開け
1994年夏、米国ミリポア・コーポレーション社は本業のメンブラン膜および純水製造事業を残し、傘下のウォーターズ・クロマトグラフィー事業部と私の所属していたバイオサイエンス事業部を売却する発表をします。
ウォーターズ・クロマトグラフィー事業部はすぐに買収先の銀行系投資企業傘下に入る発表がありましたが、バイオサイエンス事業部は、なんと発表後9ヶ月も待たされる羽目になったのです。これで人生3回目の売却劇に遭遇していました。
事業部売却が公表されて9ヶ月待機は、とても辛いものがあります。ユーザーや販売店は、どうなるかわからないメーカーから物を購入しません。社員も不安のまま生活するのは辛いものがあります。競合メーカーの営業は、当然この不安を材料にして、最初から検討項目を外すよう誘導します。依頼される見積書の多くは相見積提出目的でした。
こうして待機期間が6ヶ月ほど過ぎたある日、米国本社のバイオサイエンス事業部長ジャック・ヨハンセン氏から電話をもらいました。内容は「イワセさん、独立するぞ。名前はバイオサーチ社だ(BioSearch)、すぐに準備してくれ!」。
ジャック博士はペプチド化学の専門家で、当時ミリポア社CSO(Chief Scientic Officer)を兼任しており、気のいい学者肌の大きな先生。よく京都大学、大阪大学、九州大学などに同行しましたが、大きなハード型スーツケースを持っており、その半分には論文コピーが入っており、新幹線に乗る前に5cmくらいの論文を取り出し、社内で読んでは捨てていました。フケ症でいつもダークスーツの肩にはフケが落ちていて、それを顧客訪問前には、いつも私のハンカチで払ってあげていました。
各大学にて著名な先生方とは、友人のように会話し、学問とビジネスをはっきり別けて会話され、実に見事な産学連携の進め方をみたのは私としては初めての経験だったかと回想しています。国内企業の場合、このような状況を創作できるのかいささか疑問ですが、何が違うのかは定かではありません。
ジャック博士からの電話で私達はワクワクし、すぐに起業準備に入り、当時すぐに起業できる外国会社登記のため、米国大使館に依頼届けを出しに行きました。日本に在住し住民票を有する日本人がいれば、当時は資本金10ドルで会社を興すことができました。株式会社を興すには1,000万円の資本金が必要なのに対しこの方法が便利でした。米国大使館ではAffidavitと云う宣誓書の提出が必要で、係官の前で右手を揚げ、聖書を前に宣誓しなければなりません。結構その気になり心地よいものです。
それから3ヶ月目の6月初旬、本社から連絡があり、とある米国大手競合企業日本法人社長を含めた役員とすぐに会ってほしいというのです。私は当時三番町にあるその会社を訪ねました。先方社長および数名の役員の口から飛び出したのは、「どうやらうちが、貴社のバイオ部門を買収するらしいですよ。」とネホリハホリ。
ウーム、どうしよう。。。
それから2週間、プレス発表された内容は、『米国ミリポア・コーポレーション社バイオサイエンス事業部が、MITからのベンチャー米国企業パーセプティブ・バイオシステムズ社に買収決定』
ハアー???
2週間前の出来事はいったい何だったんですか?????

幻の会社BioSearch社のマグカップ
ジャック氏は翌日会社を去りました。大きな会社のCSOジャック氏は日本で私達とよく酒を呑み、楽しい話をたくさん聞かせてくれました。科学の未来もバイオの現状も、多くの学びの機会を頂けた事は大きな人生の得であったと今でも感謝しています。
そこからまだまだ波乱万丈な未来があるとは、その時はまったく予想はしていませんでした。
(次号へ続く)

岩瀬 壽 氏
一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。
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