第3回 企業買収とベンチャーへのスピンアウト

予測不能な事態に立ち向かう

1995年7月夏の夕暮れ、ボストン市内のスポーツバーにて同 行渡米した相棒のY氏とサミエルアダムスを片手に、その日の 反省会とラップアップをしていました。
「さあ、これからどうしようか?」 私と相棒の営業マネージャーY氏は米国ミリポア社本社マー ケッティングマネージャーのデビット氏から、1か月前に買収され たアナウンスのあった相手企業との最初のマーケッツティング 合同ミーティングがある事を知り、同席をお願いして渡米してい ました。相手の会社とは、1992年にMIT(マサチューセッツ工科 大学)発の学発ベンチャー企業パーセプティブ・バイオシステム ズ社で、創業者ヌーバー・アフェイアン博士がパーフュージョン クロマトグラフィー技術を事業化するために起業したバイオベ ンチャーでした。パーセプティブ社は、ミリポア社バイオサイエ ンス事業からペプチド合成・DNA合成・バイオクロマト部門のみ 買収したのです。ベックマン社に買収される噂のあった中で、突 然まったく無名のバイオベンチャーに移籍するのも当時の我ら からすれば不安があったのでしょう。どんな会社なのか、自分た ちの目でみたいという興味のほうが大きかったかと回想します。 その日のミーティングはオブザーバー参加が目的でしたが、私 はあらかじめ資料を用意しており、日本の現状を機会があったら 話そうかと計画していました。ミーティングで両社の本社スタッ フ達は、製品や技術の解説が大半で、どれだけ自社製品が優れ たものかという観点でしか話を出しません。散々販売に苦労し てきた完成度が低い製品であれ、世の中で一番優れているとい う自慢話しかしないのです。米国人のプレゼンの上手さは熟知しているつもりでも、背筋が寒くなるような会話に3時間も我慢するしかありませんでした。夕方になり最後の相手企業の近日発売予定の新製品(新しい質量分析計)プレゼンの際、プレゼンテーターは世界の市場規模とマーケティング戦略につき計画を示すスライドがありました。驚くなかれ、米国60% 欧州30% アジア10%と書いてあります。そこにJapanの文字はなく、日本はアジアの1国であり、最初の導入目的市場は米国しか考えていないという内容だったのです。 「ちょっと待った!」 ここがチャンスと考えた私は、反射的に手があがっていました。 「その計画はおかしいと思います。日本の市場はバイオ市場の場合、20-25%はあるはず。」 ここから私の発言がきっかけとなり、相手企業パーセプティ ブ・バイオシステムズ社と買収された米国本社マーケティング 要員達との間に議論が始まってしまいました。そこで、 「それでは、私が持参している市場の数字と営業戦略につき資料 があるので、10分だけ時間いただけませんか?」と切り出しました。

10分の時間を確保した私は結果的に1時間の日本市場の解 説と営業マーケティング戦略および成功事例をプレゼンしてし まいました。外は日が暮れて暗くなり、その日のミーティングは これで終了。みなさん疲れていて、その日は解散になりました。

相棒の営業マネージャーY氏は、ビールを片手に、
Y氏:「あのさ、この会社面白そうだと思わない? だいたい創設者でCEOのヌーバー氏はサイエンティストだし、まだ30歳 そこそこ。今我らのいる大手企業の経理屋さんCEOより 理解ありそうだよね?」「それに我らは買われた会社側にい るとは云へ、入社したのはミリポア社で、会社が買収された とはいっても、その会社に行くか行かないかは会社の判断 で決められるものなのかなあ?」
私: 「ウーム、でも小さい会社で、まだ日本も知らない技術集団 のほうが働きがいはあるよね。私は移籍するよ、だって面白 そうじゃあない?」
Y氏:「移籍するのか、それとも退社して入社するのかは違うのではないかな。」
「実はね、今回米国に来た理由は、もしかして私がスピンアウトしてリーダーになれるかとも想像していたんだよね。でも、今日のプレゼン聞いたら、あなたの方が良いと思う。やるのならついて行くよ。」
私: 「?????????? んまあ!」
Y氏:「じゃあ決まり。帰国したら準備しよう。」

M&A による組織統合の希少な経験 (組織からのスピンアウト)

こうして私達は就業している企業からのスピンアウトを計画す ることになりました。しかしながら、帰国すると別の2つの大きな 問題を抱えていることが判明したのです。問題は二つありました。

問題1
すでに米国パーセプティブ・バイオシステムズ社は1年前 に日本法人パーセプティブバイオシステムズジャパン株 式会社を設立し、社長を含め従業員4名で稼働。
問題2
買収による事業部移籍は売上規模からして日本では20名 しか移籍できない。当時私の部下で事業部要員は48名で したが、買収要項において、ミリポア社側の移籍製品のう ち半数の製品は不要とあり、ミリポア社は不要製品群の大半を製造販売中止宣言したのでした。従って、最大20名 しか移籍できないという結果になっていたのです。

そこでミリポア社日本法人社長との交渉が始まりました。問 題解決策を掲げるには下記を提案したのです。

提案1
48名社員の内20名を移動するには、各自面接をして本 人意思で希望者を募る。ただし、移籍ではなく一度退社し 退職金を精算する。残る28名は残留し、適切な部署に配 備する。
提案2
すでにある相手企業日本法人への移籍ではなく、9ヶ月 前に米国本社の指示で事業部ごとスピンアウトする計画 に合わせて国内で設立登記しておいた外国法人バイオ サーチ社の社名を変更し、日本パーセプティブ・リミテッドを独立させて再雇用する。

この提案には理由がありました。提案1に関しては、通常企業の一部が他社に売却された場合、退職金もそのままスライド移行し、さらには完全な統合終了までは最低18ヶ月かける事が本社契約書にうたわれているケースが多い事を過去の事例から経験していたので、ズルズルと時が過ぎてしまう可能性があると判断したのです。このような場合、受け渡す側の企業に居る従業員は、あまり大きな変化を捉えずに、ただ企業名が変わりサラリーマンとして毎月通常どおり月給がもらえれば良いというような、ルーチン意識というマインドを引きずってしまいがちです。ベンチャー志向という意識変革が各スタッフに存在しなければ、成功の脚を引っ張られると私は思いました。28名も移籍できずミリポア社に残留するのですが、このケースの場合、ミリポア社バイオサイエンス事業部の保有する製品群のうち半数を占める未完成品の販売を中止にするという決定がなされたため、このような引き継ぎを受けると、前向きなビジネスを進めるのに時間と人を取られてしまうという懸念もありました。負債まで背負って再出発するほどの製品力や強烈な企業背景も見えないのが真実でした。提案2に関しては、すぐに移籍できる唯一の方法、つまり登記した外国法人がすでに存在するという事実が運良くあり、また相手の日本法人に再雇用された場合、すでにある規則や給与体系に合わせる必要もありました。どんな理由があるにせよ、買収された企業側の代表は100%リーダーにはなれないという過去の事例をみてきた経験が記憶に深くあり、20名の移動する社会人人生を守ることができない事を知っていました。

通常、企業買収や統合の場合、初期アナウンスの後に両社からの声明があります。その声明文に必ず記載されているのは、”両社のビジネスは何も変わらない”とか”本合併は成長するためのもので、待遇や事務所等の変更は当面行わない”などとマニュアルの如く書かれているのです。しかしながら、実際のケースは18ヶ月以内に事務所統合や給与すり合わせなどが行われます。また、レイオフ(解雇)されるケースも多く、大半は買収された企業の上層部から整理されます。そんな場合、決まり文句は、”18ヶ月前の予定に大幅な変更がされた。売上が大幅に向上していれば、そんなことはなかったのに残念である”という臭い文言が言い渡されるものです。社内決定後、私は48名の社員全員と面談を行い、2週間以内に移動するか残るかを決めてもらう決断を個々に指示しました。その際の条件は下記のとおりで、決めるのは個人の意思という考え方を徹底したのです。

その結果、18名が移動を決断、残る30名のうち10名前後が半年以内に自主退職し同業企業へ転職したのです。

M&Aによる組織統合の希少な経験(新会社のスタートアップ)

日本パーセプティブ・リミテッドを独立させる事を決定した後、承認を取るため渡米し、状況説明をしました。あまりビジネス経験の無い学者肌の若いCEOとIT企業から引き抜かれたCFOは、ベンチャー経験の無い大手製薬企業から来たビジネス担当バイスプレジデント、ボブ・アナコン氏に私の提案を一任し、スムーズにビジネス移行する方法として、予想外に素直な承認をとる事ができました。さらには50万ドルの運営経費と半年のミリポア社からの給与保証を取り付けて再スタートが決まりました。つまり、二つの米国本社系列の組織が存在し、その業績を競う形で再スタートする事になってしまったのです。この半年が勝負ということになります。半年でもうひとつの日本法人パーセプティブバイオシステムズジャパン社と比較されるのは目に見えており、優位に立つには売上をあげねばなりません。1995年秋に再スタートし、翌年春までが生き残れるかの勝負期間になったのです。勢いでスタートしたものの、気が付くと販売できる製品群は強い商品もなく、翌1996年新年に発売が開始されたMALDI-TOF-質量分析計も我らの組織には販売を許可してもらえないという最悪のスタートでもあったのです。

秋にスタートし5ヶ月程経過した1996年2月下旬、二つの日本に存在する組織の代表として、日本パーセプティブ・リミテッド代表の私と、もうひとつの会社パーセプティブバイオシステムジャパン社社長S氏の2名は米国本社に呼び出されました。半年前に双方で再スタートし、しばらく統合は考えないと発表してから舌の根も乾かぬうちに経費節減です。同じ会社で2つ日本に事務所があるのも不経済なのは最初からわかっていましたが、すぐに成果が出せないのは辛い状況です。そこで、何を言い渡されるかを察知していた私は、近い将来の事業計画を夢で描き、戦略+戦術を中心にシナリオを書いて準備していました。米国人へのプレゼンテーションで一番重要なのは、大きな夢を描き、期待を持たせる将来像を書く事で、さらにはこの未来図が到達できる根拠を複数示し、これを達成可能な営業予測数字を使って見せる事です。5年計画の場合、通常直近の2年までは具体性を中心に、3~5年目までは数字を増加させて未来図の夢を到達地点に描きます。米国企業の場合、4半期(クォーター)での売上または受注が全ての評価になりますから、確実な数字目標と営業シナリオを確定し、そして最も重要なのは、営業受注目標を到達できなかった場合の責任所在を本社側に示すための確信的条件を文章で明記しておくのが生き抜くルールなのです。例えば、製品の仕様やサービス、顧客満足度を得られるための本社対応条件、競合価格やアプリケーションまで、競合で勝てる要素に関わる本社対応の約束事をドキュメントで残しておく事などです。

こうして日本に存在する2つの支社組織から代表として呼ばれる日が来ました。私達2名はCEO室に呼ばれ、最初に私から自分の考えを解説するよう言われました。1時間ほどの時間枠の中で、準備したスライドで日本のビジネスと戦略を解説し、その後いくつかの質問に答えました。次にもう1名の代表S氏に対し、
「次は君だけど解説してもらえますか?」とボブ氏が質問しました。S氏は、
「今日は何も言われて来ていないので、準備資料は何もありません。」
と切り出し、口頭で今までの流れを解説しただけで、10分程度で話は途絶えてしまいました。会議が終了し、私達は別の部屋で待たされていましたが、5分もしないうちにボブ氏がCEO室から出てきて言いました。
「Sさん、ちょっと来てくれますか?」またまた5分もせずにS氏は部屋からでて来て、
「ホテルに帰ります。あとで食事でもしましょう。」

S氏はとてもマイルドな感じの老紳士という印象でした。何故自分の計画をあらかじめ用意して来なかったのか不思議でした。後で聞いた話によると、確かに米国本社へ呼ばれた際、私もS氏も何の目的かは聞かされていませんでした。S氏の前歴は国内大手企業にて技術職から営業マネージャーを経て米国企業日本法人代表にスカウトされた後、今回のベンチャー企業に転職されていたそうです。ビジネスとは大きくても小さくても、その規模ではなく、危機感やサバイバルという生き残る感性のようなものを若いうちから意識して過ごし、その感性を必要な時に活用できているかどうかが、とても重要ではないかとその時感じた記憶があります。

S氏が去ってからしばらくして、私が呼ばれました。CEOの部屋に入るとボブ氏、CEOのヌーバー氏がそこに居ました。
「まあ掛けなさい。」「今、S氏をレイオフしました。明日から君に日本の会社を一つにして、代表になってもらいます。頑張りましょう。詳細はまた2~3ヶ月以内に呼びますから、それまでに整理して、翌年の計画を作成しておいてください。」

私は予想してはいましたが、あまりにも簡単で簡潔な対応に少し戸惑いましたが、切り返して言いました、
「わかりました、会社統合整理はおまかせください。ただ、引き受けるには一つ条件を聞いていただけませんか?」「新しい企業を起動させるにはエネルギーと可能性ある期待が必要です。直近の計画として18名でスピンアウトしますが、全員10%給与カットします。その代わり売上が予定どおり伸びて目標に到達した場合、その10%をボーナスで保証し、さらに目標を超えた場合は、その数字から利益換算した額を、あらかじめ予算に組み込みますのでインセンティーブボーナスとして社員に還元する権利を私にいただけないでしょうか?」

ボブ氏とヌーバー氏は顔を見合わせて、少し待つように告げて隣の部屋のCFO室で何やら話した後、すぐに戻ってきてこう言いました。
「良いでしょう、ただしこちらも条件があります。予定の目標は必ず達成してください。目標を上回る事も条件です。それでいいですね? 日本国内での事業準備は全てをあなたに一任します。早めに計画を提出しておいてください。」

これで交渉成立。お互い握手で終了。

目標数字を達成できる根拠など当然何もありません。まだ新製品も見たことがないし、相手企業の製品や技術も良く知らないので、根拠などあるはずがありません。あるのは、フラクタル理論から創造された技術、CEOヌーバー氏の熱い想い、スタッフの印象からくる成長優良企業(エクセレントカンパニー)への直感の匂いだけでした。1995年6月M&Aの発表が公表されてから9ヶ月目の出来事でした。

(次号へ続く)

PROFILE

岩瀬 壽 氏

一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。


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