急成長日本営業チームへの勲章
2007年6月 日本パーセプティブ株式会社は、“No1セールスアワード” として営業マン全員+マーケティング課員合計14名がマサチューセッツ州ボストン郊外フラミンガムに本社を置く米国 PerSeptiveBiosystems,Inc から招待を得て渡米しました。
MALDI-TOF-MS の一号機 Voager を販売開始してから2年が経過した初夏です。初年度は30台近い装置実績を達成し、同時に販売スタートした N社が受注した1台に比べ、大きく水をあけ結果になったのです。
翌年度は130台近い数字を達成し、世界シェアの40%を毎クオーターに記録し続けたのでした。

米国から売上トップで表彰された際の アワードプレート
米国マサチューセッツ市フラミンガムの本社で開催された企画会議で丸1日の全体ミーティング終了後、大型バスをチャーターしてボストン市内のハーバーに面したレストランを貸し切り、本社社員総勢50名ほどを集めて歓迎大パーティーを開催してくれました。
レストランは海に面した夜景の美しい場所にあり、白いテーブルシートの丸テーブルが並び、その奥にはステージがありました。CEOヌーバー・アフェイアン氏による挨拶スピーチ後、質量分析計マーケティングマネージャーのブライアン氏が司会役に任命されて乾杯。その後各席にはCEOから葉巻が配られるのでした。米国は禁煙王国と聞いていましたが、彼らにとって葉巻はセレブレーションには欠せないらしく、女性社員も葉巻をプカプカ吸うのです。
日本人にとってこの 環境は慣れておらず、とても奇妙な空気でした。最初は皆さん静かにして食事していたのですが、食事が中盤段階に差し掛かる頃、ブライアン氏はステージに上がり語りはじめました。
「さあ、皆さん今日は日本のスタッフの功績で大きな成果がでました。僕はこの会社に来る前は日本企業にいたので、日本人の一番好きなカラオケを用意しましたので是非ご披露していただきましょう。」ステージ横にはカラオケのケータリング業者がアンプを用意し、風船でできたギターが数本立てかけてありました。
東京の営業事業部長Y氏、大阪支店マネージャーS氏、そして私が呼び出されマイクを手にしました。本社スタッフでカラオケを体験した事がない者は恐らく8割以上だったのでしょうか、目を丸くして聞いていました。「ブライアン、今度は君のスタッフが歌う番だぞ」Y氏がブライアン氏にマイクを渡しました。ブライアンの音程の外れた歌に、全員から「オーマイガット、ノーキッディング!」次にCEOのヌーバー氏にマイクが渡され、観衆は声をそろえて「オー、プリティー」「オーマイガット」の連発です。
時間が経過し、気が付いた時にはすでに全員踊りだしているではないですか。
時計をみるとすでに11時をまわっていました。「もう帰ろうよ、疲れた」と日本人スタッフ。でもバスに乗らないと帰れません。
結局、最終的には米国チームに乗っ取られドンちゃん騒ぎに。
いかにもアメリカらしい映画の中にいるような光景で、ホテルへ帰還できたのは夜中の2時を回っていました。
翌朝、米国企業の始業は通常8:00からです。眠い目をこすりながら会議室に集合。昨晩一緒だった現地米国側スタッフはほとんど出社していました。会うなり「おはよう、昨晩は楽しかったねえ」「カラオケ大好き。ファンになっちゃった」カラオケと云えども、最後はクレイジーダンスパーティーだったのですけどね。それにしても米国人の体力は凄くて脱帽でした。
前代未聞、学会展示会でのライブデモ
質量分析装置を扱えるようになって1年半が過ぎた秋、北海道札幌にて日本生化学会がありました。
営業成績が急上昇していた日本チームは数名の人材を本社から助人として呼び、前日には定山渓温泉で大宴会を開催。そして大会中には本社CEOヌーバー氏を呼び営業パワーをみせつけました。
質量分析計がタンパク質解析への新しい手段という認識はまだそんなに大きく浸透はしておらず、そうであればライブデモを行い展示会で生のデータを成果として見てもらおうというのが営業部門からの提案でした。
幸いに分離分析法と比べてデータはその場で迅速に見せる事が可能でしたので、私たちはデモ機を会場に持ち込み、その場でデータをみせる方法でアナウンスしました。事前告知の成果もあったためか、会場でのパーセプティブ社ブースの周りは人で溢れてしまい大盛況で終了しました。これらの思い切ったプロモーションは後々の成果に大きく影響したのは事実でした。米国側スタッフと私達国内スタッフは次第に友好関係を結び、その後かけがいの無い仲間意識をもつようになります。
こうして仲間意識を共有した時間はお互いのマインドと記憶の中に現在でも共有しており、まさにグローバル企業を体感した良い想い出として残っています。
そして現在でも当時の米国の仲間達は、何らかのコミュニケーションを持ち、仕事の中で生きています。
物づくり立国としての日本にある大手企業は、それなりの成功を収めてきたと信じていますが、一方でグローバルに目的を共有し、市場の中でお互いに学びつつアプリケーションと市場ニーズを優先する米国式マーケティングとバイオサイエンス市場から学んだ期間は私達の財産として現在でも強い経験力として活用できていると思うのです。
IPO直後における営業への脅迫的圧力
1995年、買収により統合されて新会社を設立した際、前年に米国PerSeptiveBiosystems社がNASDAQに上場したばかりという事実を、当時の私達日本チームはあまり重要にとらえていませんでした。
サラリーマンとして社会人を生きてきた私達ばかりか、日本人全体が株式上場してベンチャーが進みゆく現状などはほとんど実感がありません。日本国内で大学発ベンチャーを起業せよという政府支援が騒がれたのは、さらにその後の20世紀最後の1999年頃からと記憶しています。
この頃、IPO(株式上場)は国内ベンチャー創業者の大半が、IPOすれば大金持ちになれるという錯覚があったように受け止められていたと思います。本来IPOとは、その後会社は自分のものでなく、株主の所有になりますのでIPO直後の会社が一番苦しい時期という実態を知らなかったのではないかと想像します。
PerSeptiveBiosystems社はIPO直後に私達の在籍していたMillipore社からバイオ部門を買収していました。統合が終了した私達に迫られたのは売り上げのみです。毎四半期(クオーター)の3か月目、クオーター第9週目くらいから売り上げ達成の可能性を聞いてきます。当時は工場が米国テキサス州ヒューストンにあり、組み上げ中の装置毎に女性の名前を命名します。送られてくる製造リストには番号の横にLindaとかMaryとかの名前が書き込まれています。その横に出荷予定の国名がありました。そのリストの半分がJapanとあり、これを出荷するのが彼らの使命になるのです。
クオーター最終週は毎日電話がかかってきます。ある年末の事でしたが、前クオーターに提出した売り上げ予定を第7週目くらいにクリアした日本チームに対して上乗せの出荷台数許可を求めてきました。
国内では年度末の確保台数もあるので要求に応じ、その台数受注もクリアしていました。米国ではクリスマス休暇がありますが、年末の日本は12月28日~30日くらいで仕事収めに入ります。最終日に売り上げをクリアした私達は、事務所掃除を終え忘年会に突入し、3次会まで参加して帰宅したのは深夜3時ごろでした。
ベットへもぐりこんだ私に電話のベルがなったのは朝の5時ごろだったと思います。もちろん相手はボストン近郊の本社会議室からです。毛布にくるまれた私は耳をふさぎしばらくそのままにしていましたが。何度かしつこくベルが鳴ります。しかたないので留守電に切り替えた瞬間、会議室からの声が聞こえました。「Iwase-san,起きているんでしょ?とにかく電話に出てください。わかっていますよ~」
何と云えばよいのか、アメリカ人の強引さというのか、呆れた私は受話器を取らざるをえません。受話器をとると秘書から電話を回され、現地セールスマネージャーのジェイが電話口に出てきました。「たのむよIwase-san,あと1台何とかならないか?」そう言われても日本はすでにどこも仕事収めで、会社にはすでに出社していないはず。あまりに泣きそうな声でジェイが言い出しました。
ジェイ「CEOのヌーバーから、どうしてもあと1台のオーダーを追加しないと、株主への新年の説明がつかない、正直自分も脅されてるようなもの。これがクリアできないと俺のクビが飛ぶかもしれない」
私「ほんとかよ、本音は何か裏があるんじゃあないの?」
ジェイ「ホントなんだ。でももう一つの理由は、あと1台に注文書があれば、私のボーナスが出るんだよ」
私「はやく言えよ、注文書があればいいんだね?そちらの工場出荷ができれば良いんだね「」じゃあ条件がある。営業部長のY氏に明日話してはみるけどコミットはできない。ただし、注文書がもらえたら銀座の夜、1晩100万円豪遊を許可するか、または活きたロブスターを100匹空輸でおくるか、どちらか約束してくれるかい」
ジェイ「解った、約束するよ」(もちろん冗談でした)

国から年度末に送られて納品を末装置
翌日朝、私はY氏に電話し年度末出荷予定の1台の注文書を販売店から注文書作成してもらう事に成功し米国へFaxしました。現在ではコンプラライアンスがあり信じがたい事態でしょうが、会計上の問題は当時の外資企業ではさほど大きな問題ではなかった事が幸運だったかと思いますし、おそらく本社では受注基準の報告で済ませていたのかと思います。年を明けた翌年1月中旬、出張先に東京の秘書から電話がありました。
「今、成田空港の配達業者から活きたロブスター100匹が事務所宛てにとどくと連絡がありました、明日が休日なのでどうしましょうか? と聞いています。どうしたらよいでしょうか」。
アメリカ人はジョークが好きなのか、それとも条件を真に受けたのか、活ロブスターは幸い1匹づつ箱に入れてあることが解り、社員全員の自宅に配送してもらうことができました。翌日出張先から帰宅した私が目にしたのは、まだ小学生の息子がキッチンの流し台で10匹ほどの生きたロブスターにご飯粒を与えている姿でした。
夏の次年度計画会議後とんでもない事態に
1998年8月私と2名の営業マネージャーで次年度計画案作成のため渡米していました。
創業してから4年目を迎えた夏、翌年の営業計画と戦略を決めるため世界中のブランチからマネージャーがこの時期に呼び出され本社に集結します。当時は四半期毎に1回、マーケティング会議やアプリケーション会議など、その都度呼び出されており、2泊4日の東京-ボストン往復は1年に10回ほどありましたが、40歳代の私にはさほど苦ではありませんでした。
今回の夏の出張は日曜夜に成田空港を出発し、前泊して月曜から3日間の予測営業数字の格闘を議論し、木曜に試薬工場のあるドイツのハンブルグへ立ち寄るため移動して土曜に東京へ帰途するという強行予定でした。営業会議では、日本チームが世界全体の40%を売り上げるという異常事態にも関わらず、前年度より20%以上の売り上げ向上を強いられ、猛烈な言い合いの元に脅迫じみた押しつけを受けたまま答えが出ずに欧州に向かったのでした。疲れ果てて帰還し、月曜には出社しなければなりません。出社したその月曜の夕方、本社より1通のメールを受信。そこに書かれていたのは、「PerSeptiveBiosystems社、Perkin-Elmer社による買収が決定」
「先週の会議は何だったんだ」米国の上司であるセールスVPからすぐに電話が入りました。「イヤー、Iwase-san,ごめん。この極秘事項は誰にも明かせなかった。インサイダーになっちゃうから」。
私としては4度目の企業買収の渦中を経験、しかもすべて買収された側でした。当時のPerkin-Elmer社は、すでにバイオ支援機器では市場のトップにいた米国AppliedBiosystems社(ABI)を買収しており、ABI事業部との合併を主目的にしていました。ところが、さらに驚く発表がその1週間に公表されたのです。「Perkin-Elmer社、分析機器事業部をEG&G社に売却決定。ブランド名も同時に売却し新会社名PEBiosystems社に社名変更」。
つまり老舗の製品群である分析機器事業をブランドごと売却し、バイオ系新会社に変貌させて株価を上昇させるという前代未聞のサーカスのような事を実施したのでした。後に新生Perkin-Elmer社(EG&G社)はPackard社を買収し、バイオ事業を推進するのですから市場のユーザーは混乱し、現在でも正確に理解しているユーザーはほとんど居ないというのが実態です。日本ではとても考えられない現実を体験してしまう事になりました。
その約半年後、国内においても日本パーセプティブ社とABI社(当時はパーキン・エルマー・ジャパン社AB事業部)は物理的な合併がスタートしました。国内ABI社の社長リチャード・ルシエ氏はまだ30代中半のとても頭が良い人物で日本を良く理解されていました。
リチャードと私は事前協議し、まずは営業部門を統一営業部にしてスタートする事に合意しました。過去に競合同志であったセールスマンも統合の日から競合相手が変わり、マインドが早く一緒になるため、これをみた他部署の人材も早期にマインドを共有できる事を過去の事例で私は熟知していました。ただし私の相棒でPerSeptive社日本法人を設立した際にリーダーとしての社長職を私に与えてくれた営業マネージャーY氏だけは、再度サラリーマンにはなれないと考えていることを知っていた私は、人材紹介会社から紹介のあった米国企業日本法人支社長のポストを紹介して、わずか1カ月程度で新しい米国企業日本法人社長に就任しました。
このような外資系企業の合併や買収があると、多くの人材紹介企業から複数のヘッドハントが来るようになります。結果的には企業統合発表から9か月後に国内での両社は事務所も統合し、ひとつの法人格として出発することになります。過去3回の買収劇では、通常公表後18か月以内に双方企業の物理的統合の文言が契約書に存在するのが一般的であり、買収された側の社員には安心感を促す発表が買収発表直後には何度かされます。本統合の場合、1年以内に事務所含めて統合される事になった訳です。買収された側の私達のうち1年以内に退職した者は営業マネージャー2名のみでしたが、それから1年で10名強の退職者、さらに1年後2000年後半では約半数が他社からの誘いで移動または社内移動しており、買収前の小さなベンチャー企業のチームワークは完全消滅していました。
こうして彗星のように現れて急成長を遂げたベンチャー企業日本パーセプティブ社は4年半の短い命で終結し、ヒトゲノム計画終了に向かい同じく急速に成長する新生ABI社(PEバイオシステムズ・アプライドバイオシステム事業部)として再スタートを切ったのです。後にABI社はDNAシーケンサー販売で優位な市場シェアを確保し、子会社の遺伝子解析企業セレーラジェノミクス社CEOクレッグ・ベンダー博士は2000年ホワイトハウスにて米国NIHのフランシスコリンズ所長とヒトゲノム解読終了宣言を発表します。そして、それから10年後の2010年京都国際会議場で開催された国際質量分析学会展示会で参画された質量分析企業トップ5社のうち4社までの事業マネージャーは、PerSeptiveBiosystems社日本法人で活躍した営業マン達でした。
そして、さらに新生ABI社発足後数年した後に一連の事態によく似た同じ経験を再度強いられる事になろうとは、夢にも想像していませんでした。
(次号へ続く)

岩瀬 壽 氏
一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。
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