米国式マーケッティング力の脅威
劇的な会社統合や買収劇の渦中に振り回された40代の私にとって、これらの経験はその後の私自身の社会生活にとってはとても大切なものでした。
私が過去に所属していた米国企業本社では、大学研究室と企業を往復するエンジニアや研究者との産学連携プログラムは、“Science&Technologies”と呼ばれるセクションで本社開発部門内にあり、国費を申請して研究開発を行っていました。この仕組みは日本国内においても金額の大きさは違いますが同じ仕組みで成り立っています。ところが、市場での価値をマーケティング部門が認める段階になると、“Research&Development/Engineering”という実際の産業化を視野にいれた開発部門に移ります。ここでアルファー機が完成するころにベータ機の製造企画がスタートし、最終段階に近くなると数台のベータ機をユーザーに有償で販売してしまいます。購入したユーザーも承知で、問題点を大きく洗い出し企業にフィードバックします。最終仕様機器が出来た時点で、ベータ販売された納入機は最終仕様機器と交換されます。まさに「使える機器」の完成です。
このスキムとシナリオの過程において、マーケティング力が大きく働き、その仕組みが日本企業とは大きく異なります。また、この間にアプリケーションデータが積み上げられて、販売拡大する際の大きな要素として利用されます。国内産学連携企画が5年後に完成品が出来た上で販売開始するのとは大きな差異があります。これでは「ものづくり」国である我が国の機器は大きく水をあけられてしまうのです。
最近の成功しているIT機器やソフトウエアは、開発中にユーザー意見を大きく取り込む傾向があり、また国内優良企業キーエンス社は市場ニーズを最優先に取り込みファクトレス企業として大成功していますが、国内企業でこれらの経営シナリオに優先的注目をして経営と組織に直接反映している企業は極わずかです。何故これらの大きな違いが日米間企業では起こり、またどうすれば日本企業が今後生き残れるかを最近よく考える機会があります。
自動車、半導体、家電、ソフト等の業界によりその仕組みは大きく異なりますが、少なからず自動車以外の「ものづくり」産業では、国内企業は近未来への出口をみつけるのに困惑しています。自動車産業は幸い海外でのシェアが強く、海外マーケティングの仕組みが経営の中で大きな命を支えているのでしょう。後に私はヤマハ発動機社の新規事業部門でアスタキサンチンの微細藻類培養計画のコンサルティングをすることになりますが、ヤマハ発動機社が設立当時からデザインやテスト、およびプレ販売において海外市場を優先順位で取り入れ、また外注を専門職へのアウトソースとして仕組みに取り入れた事により、海外シェアを向上させた原因であることを知りました。まさにマーケティング力をグローバルに発揮していた企業群が自動車産業の発展を支えてきたと言えます。一方で医療機器産業は年々輸入率が向上し、現在では国内製品の市場占有率は低い状態にならざるを得ない状況に陥ってしまっています。
これは規制の縛りの問題と、これによる開発経費の課題をビジネス的にバランスが取れなくなり競争に勝てないという事態に気が付かなかった結果ではないかと思います。まさに企業も国もマーケティング概念が軟弱なために起こっているのです。
グローバルとインターナショナル
近年の市場動向や日常生活の中で明らかに言えるのは、急成長する社会構図の中で演算速度が対数で成長していると言われているIT変革に影響される社会環境の急激な変革が身の回りの情報革命を起こしているという事実です。
社会人教育とは、若人の自由な思考や経営立案を考えられる素養を身に着けられる教育システムが身近に存在し、その場への若人の出会いがあるかどうかに大きく影響しています。教育とは教えられるものではなく、自ら学べる環境に出会い、自ら体感する事で未来への発想力が養われます。その環境が企業内に構築されるべきで、大手企業においても思い切った主力人材の人事や組織変革が行なわれるべきでしょう。
現代の20代人種は決して捨てたものではないと私はとらえています。10代の学生も可能性をたくさん秘めていると信じています。グローバルとインターナショナルの違いを周囲の方々に問うと、正確な回答をできる人材は極限られています。グローバルとは「地球=Glove」が語源で、地球レベルで国境のない世界を表します。スターバックスもiPhoneも各国では現地語が標準仕様ですが、仕組みはすべて同じです。インターナショナルとは国境のある世界であり、各国の特徴や文化を大切にした世界を示します。
日本企業経営者から耳にするのは、「わが社もグローバルになるのだから、社員は皆英語を勉強するように」という言葉です。この会社、まったく世界観を理解していないじゃあないか? と思います。環境の変革やすべての世界でのスピードが速くなっている現代社会では、企業そのものが若返り変革への勇気をもつ事が重要で、社会人になったばかりの若い層が“体感で学べる環境”を構築する事が将来の自社を支えるのに最も重要な事項ではないのでしょうか。
また「マーケティングとは何ですか?」という質問を周囲の人たちに聞くと、個々に出てくる言葉がすべて異なります。
大半は「プロモーション」「販売促進」「広告宣伝」などの言葉を主に説明してくれます。経営に密着した重要なポジションという意味を語る方々は日本企業の中には殆ど出あった事がありません。真のマーケティングとは会社であれば経営戦略の近くに存在すべきで、自分の所属する会社を高い空の上からみている部署のはずです。
「進む方向が正しいか」「どのユーザーに向けて集中的な営業を仕掛けるのか」「競合の戦略はどうなのか」「製品を出すのは早すぎないか、遅すぎないか」などの市場における位置づけが、計画の中でどのくらいの正確度で行使されるかを判断できる資料と裏付けを明確に経営者に向けて報告できるチームであるべきです。
“開発部門は創るヒト、製造部門は造るヒト、営業部門は売るヒト”という言葉を日本企業ではよく耳にしますが、本当にそれだけで良いのかと思う事は多々ありました。現代社会では事業はグローバルに考えるべきで、それは自社製品を海外も視野に入れ、最初から世界市場として製品開発計画を立てるべきではないかと考えます。特にバイオサイエンス研究支援市場では日本の研究者としてのユーザーの多くは海外留学経験があり、また研究レベルも決して海外には劣っておらず、むしろ優れた研究者もたくさん国内には存在するはずです。「バイオ機器は米国製品に負けちゃうから開発しない、売れない」というのではなく、「バイオ機器は国内プロダクトマーケティングを強化し、米国フィールドマーケティングの力を借りて米国で最初のテスト販売を計画しよう」という日本企業が早く表れてほしいと切に願います。
プロダクトマーケティングとフィールドマーケティング
米国企業で私が実践の中で学んだマーケティングとは、必ずそこに先に述べた2つのマーケティングが存在していました。プロダクツマーケティングとフィールドマーケティングです。プロダクツマーケティングとはR&D/E部門に対して製品に責任をもたせる仕組みを位置づけます。これに対しフィールドマーケティングは市場情報の確実なインプットで、製品上市のタイミング、プライス戦略、アプリケーション優先順位、市場ブランディングの仕組みなどを研究・調査し、営業部門へ適格な計画立案に協力できるのが重要項目になります。そして、これらの二つのカテゴリーからなる組織の中でチームワークを組める仕組みを構築します。
米国企業は実にチームワークをうまく仕組みます。日本企業では真のチームワークを組むのが困難な組織体系と個人のサラリーマンという妙な意識に縛られ過ぎているのではないかと思います。現在でこそフリーデスク方式の事務所をもつ企業も多くなりましたが、通常日本では課長が窓際にデスクを置き、課長から見えやすいようにデスクを束ねて設計しデスクを配置します。米国ではパーティションでデスクが仕切られているのが通常です。こんな区切られたオフィスでどのようにコミュニケーションとるんだろうかと最初は不思議でした。米国のオフィスの中は静まり返っていますが、日本のオフィスでは電話の音やら雑談やらで、いつもうるさいという印象がありました。静まり変えるオフィスでの要員は個々にちゃんとチーム要員としての仕事をこなし演じているのです。それは、個々の業務内容と義務が明確であり、仕事をしている“フリ”が通用しないフリーエージェント意識を子供の頃から体感教育により、自然に植え付けられているからなのかもしれません。「仕事肥満体質」という記事を読んだことがあります。仕事を終わらせられない症候群とでも言いましょうか、仕事の本質やチームによる役割分担すら理解できずに、ただひたすらに仕事をしている人種のことを言うのでしょう。
当時もやはり営業からもどりオフィスで毎日夜遅くまで仕事をしている営業マンがいました。営業マネージャーのY氏は次年度の評価項目にサービス残業禁止項目を追加しましたが、本人の仕事肥満体質は変わらず、そのマネージャーの評価結果は社員中最低値としました。真のマーケティング機能が存在し、教育システムが整っていれば、そんな事は起きないと思うのですが、皆さんの周囲を見渡してどう見えますでしょうか?
1996年日本パーセプティブ株式会社を米国子会社で設立した後、最初のMALDI-TOF質量分析計を上市した際、営業力やフィールドマーケティング力は国内チームが威力を発揮してくれたのは間違いないのですが、もう一つの力は技術サービスチームでした。彼らはユーザーに納品した装置の不具合や改良点を毎日のように電話で開発側と製造側に報告し議論していました。従って毎回輸送されて送られてくる装置は改良され、ユーザーフレンドリーという言葉にふさわしい仕様に仕上がってきたきと思います。これはまさに米国のプロダクトマーケティングチームがフィールドマーケティング側の意見を正確に取り入れて事業の回転率を向上させた結果による成功と捉えていますし、また真のグローバルマーケティングを無意識のうちに完成して行動していた結果が成功のカギであったと確信するのです。
前代未聞の急成長バイオフィーバーと20世紀最後の年
1995年にスピンオフして設立した日本パーセプティブ社が短い4年の命でM&Aにより親会社に吸収された年の年間売り上げは、本社決済で¥100億を超えており、日本国内はその40%近い数字を維持していました。そして新生アプライドバイオシステムズジャパン社(通称ABI)として再スタートした1998年、両社社員数は合わせて180名、国内売り上げ¥200億でした。2001年ヒトゲノム解読終了宣言時の国内社員数は290名、売り上げ¥300億を達成していました。
この前代未聞の急成長ベンチャー企業はしばらくこの世には表れないだろうと今でも思います。そして「買収された側の人員はトップも含めていずれ処分される」という過去の経験も含めて、会社内に近未来を読むマーケティング部署を設定すべくリチャード氏と相談し、新しいフィールドマーケティングチームを結成しました。買収された側から5名、買収した側から3名の8名の新生チームで、名称を「バイオディスカバリー部門」としたのです。
丁度同じ時期に米国本社はDNAシーケンサー、PCR、質量分析計などの製品を販売するABI事業に対し、DNAシーケンサーを約300台並べてヒトゲノム解析を国プロジェクトより早く読んでしまおうという社内ベンチャー事業を発足させました。この新規事業こそがセレーラジェノミクス社であり、ヒトゲノム解読終了宣言の2001年にメディアでも多く報道された記憶は皆さんもあろうかと思います。
セレーラジェノミックス社はNASDAQに上場させることになり、本社はホールディング会社として名称はPEバイオシステムズに変更することになりましたが、国内ではセレーラジェノミックス社ビジネスは未開との判断で、社名はそのままABIとなり、セレーラジェノミックス社事業のハンドリングは新設のバイオディスカバリー部門で行うよう指示がきたのです。日本で最初にこの遺伝子解析コード購読事業を当時の武田薬品工業社にハンドリングできたのも新設チームの成果でしたが、もう一つの出来事はバイオフィーバーから投資家が興味を引いた点にありました。中でもソフトバンク社は大型投資を考えていたのかは定かではありませんが、孫正義氏にお目にかかったのもその時でした。結果は本社株が売買ゲームのように上昇したため、海外投資とくに日本からの投資には目もくれない状況で、そのまま消滅してしまったのでした。
当時の私はこれが事業のピークと考え、また日本法人社長リチャード氏も同じ考え方を持っていました。リチャード氏は子会社の遺伝子解析会社セレーラジェノミクス社への移籍が決まり、本社を含めて世界支社における上層部での人員配備はドラスティックに変貌していきました。
ある日リチャード氏から「たまには銀座でビールでも呑まない?」と誘われ、銀座ビアホールで落ち合いました。そこでリチャードが切り出しました。
「Iwase-san,私は年末に米国に帰るよ。替わりの代表は香港から来るけど、政治的な奴だよ。たぶん君の給与は半年しかとっていない。」
私は言いました、「そうですか、まあ買われた会社の社長は100人いても99人は1年以内に居なくなりますものね」なにげない会話の中に経験からくる「いつかこの日が来るだろう」という想いと、開き直る即決の心が「1カ月後に会社辞めよう」という決断をしていたのでした。おそらく当時はまだ私の脳裏には安っぽいプライドという文字が頭のどこかにあったのでしょう。
リチャード氏から言われたのが2001年5月連休明けでした。その後、当時のマーケティング活動で知り合ったICG社という投資企業からバイオ関連事業でインキュベーションチームを新設するので移籍しないかという話が舞い込み、私とセールスで15年ほど苦労を共にした日本パーセプティーブ社時代の部下S君、それに私の秘書の3名でICG社に移動するためABI社を退職することに決めたのでした。そして2001年6月30日をもって退社するため最終日に旧日本パーセプティブ社社員全員が六本木のレストランで送別会を企画してもらい、大きな花束と共にABI社を離れたのでした。しかし、その退職から一週間もしないうちに自分の小さなプライドを捨てざるを得ない不測の事態が起ころうとは、その夜は誰もがまったく考えていませんでした。

ヒトゲノム解読終了宣言をホワイトハウスで公表した時期にTIME誌表紙に登載されたクレイグ・ベンダ博士(CeleraGenomics)とフランシス・コリンズ氏(NIH)
今、世界が人類史上初めての大きな変貌をしようとしている渦中に私達は生きています。明治維新に世界がどのくらい変わるかを予測して生きていたヒトがいたでしょうか? 敗戦後の日本に現在を予測できたヒトがいたでしょうか? 私達は若い世代に将来の希望と日本を託さねばならず、しかも大きな変革期という好機を迎えています。未来を描くには、過去のアーカイブを知る必要があります。そしてその事実から将来へのストーリーを描き、そこで初めて将来像が浮かんできます。真の戦略を描くには、そんなシナリオを自分の中に築く力が必要になります。日本企業に勤務する多くの若者達に、好機の変革期で力を与える企業になってほしいと心からエールを送ります。

岩瀬 壽 氏
一般社団法人日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー、
バイオディスカバリー株式会社 代表取締役社長&CEO。
1951年東京都生まれ。日本大学理工学部工業化学科卒。メルクジャパン、日本ウォータズ、日本ミリポア、日本パーセプティブ、アプライドバイオシステムズ、バリアンテクノロジーズ、アジレントテクノロジーなどで分析機器・バイオサイエンス機器の経営・マーケティングを経験。2001年バイオディスカバリー(株)設立。2013年より日本分析機器工業会(JAIMA)ライフサイエンスイノベーション担当アドバイザー兼任。