はじめに
この連載は、薬づくりが大きな転換期に突入しているという認識から出発している。そこから次なる時代を予見しようというのが主題である。薬は製薬企業でつくられる。そのR&Dのモデルは、自社完結型から前競争的な領域で外部との協力を重視する、オープンコラボレーション(Open Collaboration)を合言葉とするモデルへと進化している。有力な製薬産業がある欧米と日本では、国が生物医学の基礎研究の成果を病気の解明や薬づくりに反映させるトランスレーショナルリサーチ(Translational Research(以下ではTRと略す)を重視するようになった。それらの動きに呼応して大学などのアカデミアでも、より積極的な製薬企業との連係やオープンコラボレーションやTR的な研究に取り組むようになった。
一方で製薬企業の中では、「薬という『もの』を売るだけでなく、健康の『ソリューション』を提供する」ビジネスを模索する動きも顕著になってきた。しかし、そのために具体的にどのような課題に取り組むべきかについては、まだあまり明確にされていないようだ。以下では、連載の最後としてこうした動きを考察してみたい。
製薬企業の置かれた環境の変化:ファーマ危機の構造
製薬企業の環境は、今世紀に入って激変した。2001年にヒトゲノム解読計画がほぼ完了した頃から、その成果を病気の解明や画期的な薬づくりに活用できるという夢が大いに語られた。薬づくりもゲノム、オミックス、分子的な信号回路網(Pathway/Network)が、薬の標的探索の基盤技法となり、低分子だけでなく抗体医薬も注目されるようになった。だが、上市される新薬の数は伸び悩み、規制はより厳しくなり、開発期間も長くなり、開発費用も大きくなった。さらに2011年頃には、ブロックバスターと呼ばれる売り上げの大きな商品が相次いで特許切れとなることもわかっていた。そこで経営者たちは、冒険的な新薬開発からの撤退、合併、買収、研究組織のスリム化、余裕資金による自社株買いなどの経営術を駆使して、会社の利益を守ろうとした1)。しかしそれでは企業が存続できても、国民が必要とする薬が開発できない怖れがある。
民と官のこうした危機感が、EUと欧州の製薬会社によるIMI(the Innovative Medicine Initiative)の(2008年の)設立2)、米国のNIHのNCATS (the National Center for Advancing Translational Sciences) の(2011年の)設立を促した3)。日本でもAMED(日本医療研究開発機構)が(組織としては2014年に)設立された。現在のオープンコラボレーションやトランスレーショナルリサーチの大合唱は、そうした危機意識の現われでありIMI、NIH/NCATS,AMEDは、危機に立ち向かう救世主の象徴のような存在になっている。
社会の変化:ディジタル化と健康長寿研究の大波
現在開発が始まった薬が世に出るのは、今から10年ないし15年先であろう。ちなみに現在がん治療で注目されている(抗PD-1抗体など)免疫チェックポイント阻害剤の研究が始められたのは20年以上前である。ゆえに現在研究開発されている薬が使われる社会は、いまから15年あるいは20年先ということになる。それはどんな時代なのだろうか。
ヒントになるのは、20年前から現在までの社会の変化である。現在はネット社会と言われるが、それは20数年前の1993/4年頃に、インターネットが一般に開放unleashedされたことによって始まった4)。これが1960年代末に構築され始めたインターネットの第1の革命であり、現在広がっているスマートフォンやタブレットPC、クラウドなどの新しいネット環境の出現は、ネット第2革命ということになる。過去20年間に生まれた膨大な数の新しいサービスを考えると、これから10年ないし20年の間に出現する新サービスは、想像を絶するほど革新的になるだろう。
一方で、先進国も中国などでも高齢世代の増加が深刻な問題になり、平均寿命ではなく、健康寿命を延ばすことが大きな課題になってきている。そこでゲノム解読の成果活用の先端を走るリーダーたちは、医療全体のディジタル化(Digital Health)やモバイル化(mHealth)の先にある健康長寿をめざした大規模な集団を対象にした研究を開始した5)。米国シアトルのシステム生物学研究所を主宰するフッド(L. Hood)らのHundred Person Wellness Project(HPWP)、ヒトゲノム解読計画でも知られるベンター(G.Venter)が設立したHuman Longevity, Inc. (HLI)の健康長寿研究計画、Google(Alphabet)の複数の大学と組んだ健常人の集団のデータを継続的に収集することで検査値の基準値をみつける研究(Baseline Study)などは、そうした事例である。
そのような研究は、希少疾患やがんについて(数万人規模の患者を対象にした)10万ゲノムの解読をめざした英国のGenomic Englandの事業や、100万人の対象者を目標にしたNIHのゲノム解読を踏まえたコホート研究、15万人を越える登録者を擁する日本の東北メディカル・メガバンク計画など、国が支援した研究とよい対照をなしている。
薬づくりの関係者としての生活者や患者の役割
未来の薬づくりを考えるとき、重要なのは患者への対処である。欧米では、生活者や患者を薬づくりの関係者(Stakeholder)と捉える意識改革が急速に進んでいる。薬の開発では患者の声に耳を傾け、患者の参加を促し、患者の立場から効果や危害を評価すべきであるという声が高くなり、多くの議論がなされ、実験的な事業に官や民の資金が投じられるようになってきている6)。この考えは、「患者の参加は、薬づくりのブロックバスターになる」という言葉に象徴されている7)。
生物医学研究においてヒトは、大きなモルモットではなく、仲間(Partners)だという考えは、すでにゲノム研究者の間では広く受け入れられている8)。ゲノム配列は、比較例が多いほど信頼性の高い解釈が可能になる。一方で、検査の集団が大きくなっても参加した個人にもご利益がありうる。このことが従来の集団検査と集団を対象としたゲノム解読検査との大きな違いである。患者数が少ない希少疾患では、患者支援団体(Advocacy Organization)が研究者や医療サービス提供者との仲介役を果たす例が多い9)。そうした研究のためのバイオバンクの構築にも患者支援団体の協力が必要になる。
これまでの医学研究では、患者と健常者とを単純に2分類してきた。しかし、個別化医療やプレシジョン医療(Personalized/Precision Medicine)をめざした研究では、患者も健常者も、より層別化(Stratification)されようとしている。そのために遺伝子やゲノムの検査から、血液のような生化学的な検査や腸内細菌を含む共生微生物や感染微生物の検査、力学的あるいは電気生理学的な検査、その他、疑われる疾患を特定するための検査(バイオマーカー)など、多様な検査が行われる。そうした検査は、専ら医療機関で行われてきた。ところがそのような検査の一部は、DTC(Direct to Consumers)と呼ばれる消費者に直接宣伝するサービスや、自分で使う携帯型の簡便な計測装置(Wearable/Wireless Sensors)による対応でかなり代替できる可能性が高くなってきた10)。後者はPoint of Procedure / Point of Careと呼ばれる技術である。
賢く行動力のある生活者
このような潮流は、消費者のヘルスケア(健康医療)に対する認識を大きく変える力になっている。消費者は、医師の処方を必要としない「薬にあらざる介在法」である食事、サプリメント、運動、睡眠、呼吸、瞑想あるいは内観法(Mindfulness)、その他の生活様式の工夫などの有用性を、医療機関に依存せずに確認することが可能になってきたことに気がついてきた。なかでも腸内細菌叢の検出とその役割解析の急激な進歩は、食事の効果の判定に新しい次元を開いた。また携帯型の簡便なセンサーや撮像機器や微小血液検査サービスの普及は、医療機関における離散的な計測を凌駕する個人の健康データの連続的な収集が可能ではないかという期待を高めている。
こうした流れに随伴するさらに根源的な変化は、専門的な生物医学情報知識のネットへの公開である。それを後押ししているのが米国や英国における公的研究費が投じられた研究の成果を公開する政策である。これにより英語であれば、生物医学の最新の研究成果を一般の生活者が容易に入手することが可能になった。かくして賢くなった生活者(Wise/Empowered Consumers)が急激に増えるようになってきた11)。
いまや欧米の大手製薬企業は、そうした生活者や患者を薬づくりのよりよいパートナーとするための活動に積極的に取り組みだしている。そうした実践活動の一つの例が、長期にわたる患者教育プログラムである12)。
新しい発見や新技術のパイプラインへの影響
これまで述べきたことを要約すれば、オープンコラボレーションとトランスレーショナルリサーチ(TR)への高い関心が薬づくりの現在とすれば、製薬企業が「薬という『もの』を売るだけでなく、健康の『ソリューション』を提供する」ビジネスを本格的に展開する環境が、ヘルスケアの様相が改まった次の世代である。そうした次世代ヘルスケアにおいてはディジタル化が進み、簡便な計測機器やDTCサービスを活用して自らの健康状態を連続的に記録する生活者や患者が増大しているだろう。それはおそらく今から7年から14年後の2023年から2030年頃だと予想される。そうした次世代のヘルスケアでは、予防や予兆的な対策がより重要になり、慢性疾患の悪化への対処が薬にあらざる介在によってなされる割合が高くなる。さらに、現在よりも個々の生活者や患者の特性を考慮した治療が施されるようになる13)。
ではそれまでの間に製薬企業のR&Dの環境は、どのように変化していくのだろうか。最初に考えるべきは生物医学分野の新発見やその基盤となる分析や計測の新技術、それら全部に影響するICT/IoTなどの技術のインパクトである。ヒトゲノム解読後における、画期的な新薬開発への期待はまだ満たされていると言い難い。だが薬づくりの基盤になるような新しい発見や技術は、凄まじい勢いで増えている。
現在、TRの視点からとくに話題になっている例だけでも超高速塩基配列解析(NGS)、先端的なオミックス、exRNA(Extracellular RNA Communication)、単一細胞計測、ゲノム編集、胚性幹細胞(ESC)/間葉系幹細胞(MSC)/iPS細胞、組織あるいは臓器代替チップ(Body/Human on a chip)、分子あるいは細胞イメージング、脳撮像技術Brain Scanなど枚挙にいとまがない。また、そうしたウェットな技術は、スーパーコンピュータ、ビッグデータ、人工知能(とくに深層学習DeepLearningや自然言語処理NLP)などのICTと組み合わせられることが多くなるだろう。
だが、こうした新発見や新技術は、画期的ではあっても薬づくりの既存のパイプラインの枠の中のいくつかの部分に分散して吸収されていくだろう。例えば、iPS細胞やゲノム編集の活用という視点からは、患者から採取した細胞を基にした特定の疾患のヒト細胞モデルを作成して薬物の標的探索を行うとか14)、(iPS細胞から)肝臓や心臓を構成するそれに分化させた細胞を使って薬候補化合物の安全性を評価する15)というように、既存のパイプラインの標的探索や前臨床という枠に区分されうる。同じことは、スーパーコンピュータ、人工知能あるいは深層学習Deep Learningの活用についても言える。それらは、例えば標的タンパク質と薬の候補化合物との結合予測の膨大な組み合わせを効果的にしらべる仕事や、薬の候補化合物の薬らしさの評価や16)、臨床試験の成否の推定17)などに応用する研究がなされている。こうした課題は難しいかもしれないが、既存のパイプラインの枠組みで対処できる。もちろん、そうした発見や新技術を組み合わせれば、パイプラインをより効率化し、成功確率を高めるように工夫することもできるであろうし、実際にそうした提案もなされている18)。
イノベーションの課題 | 個別課題 | 生物医学的な課題 | 情報計算技法 |
---|---|---|---|
オープンイノベーションへの対応 | 新発見、新技術への迅速な対応のためのプラットフォーム構築 | 新発見、新技術の吸収と活用 Genome から EpG, G x E 研究へ限りなくヒトに近いモデル系の開発 |
共創の基盤づくり情報と知識の共有人材育成への協力 |
薬の適正使用の研究 | 個人に適した薬の選択 薬の最適使用時期と量の研究 |
PGx, TGx 研究 バイオマーカー探索 適切な多剤併用研究 時間生物学研究 N of 1 研究、Point of Care の普及 |
GOP/N アプローチ PHRとEMRの統合 データ解析・パターン認識 知識処理・認知計算技法 自然言語処理、制御理論 |
薬でない介在法の研究 | 食事、運動、睡眠、身心制御、その他の生活様式の効果と危険性に関する分子的基礎の研究 | PGx, TGx, NGx 研究 バイオマーカー探索 ヘルスマーカー探索 時間生物学研究 N of 1 研究、Point of Care の普及 |
GOP/N アプローチ PHRとEMRの統合 データ解析・パターン認識 知識処理・認知計算技法 自然言語処理、制御理論 |
生活者や患者との新しい関係の構築 | 薬の研究開発への患者参加の促進 参加型ヘルスケアの支援 |
参加障壁の低減 倫理法律社会的課題 共創の基盤づくり Point of Care + N of 1 研究 |
共創の基盤づくり 情報と知識の共有 学習機会の提供 データ解析・パターン認識 |
パイプラインの見直し | 外部組織との協力 | 部分領域ごとのイノベーション | 全体が ICT/IoT に対応 |

図1. 現在の一方向へ流れるパイプラインの模式図
次世代への薬づくりのイノベーション
ただし、このような新発見や新技術に対応する努力が、そのまま製薬企業を健康ソリューション企業へと進化させることにつながるわけではない。一般に我が国の企業が、科学や技術の新しい成果を吸収して自己のものとし、革新的な製品を市場に出すことに優れていることは、よく知られている。だが製薬企業が健康ソリューション企業へと進化するために求められているのは、新しい仕組みをつくることや新しいサービスを生みだすことである。そのためには価値観の転換が必要になる。
もちろん、必要なイノベーションが企業ごとに異なるのはビジネスにおける差別化と競争の原理からして当然であろう。しかし共通の課題もある。以下にそれらのイノベーション課題を簡単に列挙してみる。
- オープンコラボレーションへの対応
- 薬の適正使用の研究
- 薬でない介在法の研究
- 生活者や患者との新しい関係の構築
- パイプラインの見直し
表1はその概略の説明である。紙数の関係で詳しい説明は省略するが、注意すべきは、これらの課題が独立ではなく互いに深く絡み合っていることである。また、その結び目にあるのが、ヘルスケアにおける患者中心の思想である。
オープンコラボレーション
まず、オープンコラボレーションについて言えば、現在の我が国のオープンコラボレーションへの取り組みでもっとも欠けているのは、薬づくりの関係者としての主体性をもった生活者や患者の参加である。サービスの受け手である患者が対等なパートナーとして研究開発に参加することには障壁がある。それを低くする基盤的な仕組み(Platform)がまず構築されなければならない。そこでは例えば、個人の健康記録の管理に関わる約束事が定められたり19)、生活者や患者のための学習プログラムが用意されたりしなければならない。実際、欧米のTR的なオープンな研究事業には患者の参加を重要視する姿勢が見られる。例えばNIH/NCATSはPCOR(Patient-Centered Outcomes Research)という研究支援の枠を設けている。患者参加の重要性は薬づくりにおいても広く認識されている。EUではビッグファーマが、そうした横断的な取り組みを模索している20)。がんに関する患者が参加する重要性も議論されている21。例えば抗がん剤を患者がどのように受け入れるのか、その感覚が重要だと指摘されている。実際、日本でも抗がん剤の副作用は自宅で経験されるとも報告されている22)。
薬の適正使用の研究と薬でない介在法の研究
次に薬の適正使用の研究と薬でない介在法の研究をまとめて考えてみよう。薬にあらざる介在法の主力は食であるが、それを含め、薬にあらざる介在法の研究の究極の目標は、それらの介在法の分子的な基礎を明らかにすることである。したがって薬の適正使用の研究と薬でない介在法、とくに食の研究とは、分子レベルの研究としては重なりが大きい23)。いずれも生体が外から取り込んだ化合物にどのように応答するかの研究が基本になる。したがって基盤となる応答回路も重なるところが大である24)。また、食事も薬も腸内細菌の影響を受ける。だからこうした細菌検査の精度が上がるほど、個人差も顕著になる。さらにヒトも腸内細菌も体内時計(Circadian Rhythm)をもっている25)。 薬の最適な使い方Personalized Medicineや個人に適した食事Personalized Nutritionを考えるには、こうした条件を考慮する必要がある。研究においては、そうした違いを反映させた被験者の層別化が必要になる。そのような研究を広く展開するためには、医薬品や食品の特定の企業が患者や消費者を囲い込むのではなく、立場を異にする関係者がオープンに参加できるプラットフォームを構築しておくのが賢明であろう。さらにこうした流れが行き着くところは、個人個人の健康状態を最良に維持するためのPersonalized MedicineやPersonalized Nutritionの研究である。そうした究極の研究が、N-of-1研究である26)。それは現在の治験や臨床試験をより洗練した技法ということができる。一方で、食のように薬にあらざる介在法の中でも一番身近な介在法に関して、個人に適した食事の助言をしようとすると、やはりN-of-1研究に行き着く。他の介在法についても同様である。そのような研究を医師やメディカルスタッフを含むヘルスケアのプロバイダー(サービス提供者)任せにすることはできないだろう。したがって生活者や患者自身の参加がN-of-1研究の前提になる。食と薬の相互作用を考えれば、同じことは薬を適切に使うことについても言える。結局、食と薬と毒の研究は、三位一体の健康科学として考えなければならないことになる。
どのような専門職が必要なのか
ヘルスケアのイノベーションを、現在および未来のICTを活用するという視点から考えた時、その担い手となるICTの専門家をどう育てるか、あるいは確保するかが、大きな課題になる。彼らは、診療の質をあげるために、医師やメディカルスタッフの意思決定や行動への助言をする仕事に関わる。その職能の中核になるのは、(診療に関わる)データから知識を抽出して
(fromdatatoknowledge;D2K)、それをサービスに還元する仕事である。これは、Translational Data Scienceと呼んでもよい、高度な判断を伴う経験に裏打ちされた仕事Artsだろう。そこには、データの扱いや、データ解析、モデリングなど、情報計算の多様な技法が含まれている。未来の病院では、そのような(データサイエンスの)専門家を正規の職員として多数雇うか、そうした専門家集団と契約して、継続的、安定的に協力してもらう体制をつくる必要があるだろう。
彼らは、医療関係者、とりわけ医師と協力して、その意志決定の基礎になる、いわゆるEvidence-Based Medicine(EBM)や Evidence-Based Supplement (EBS)に関わる、計測からデータの解析や実験の評価技法に関する専門家である。言うまでもないがEBMやEBSは、臨床医学、医薬品開発、予防医学や健康食品やサプリメント研究の聖杯HolyGrail的な課題である。だから彼らには、臨床医や基礎研究者と深い対話ができるだけの生物医学の知識と対話の能力が要求される。数学の中でもアーベルやガロアのような若い天才が現れる数論などと違って、統計学には天才がでないと言われる。それだけ経験が必要だという意味だ。同じように、上でいうデータサイエンスの専門家の育成も、即席は効かない。臨床家と同じように経験を積む必要がある、だから時間が掛かるのだ。
このような専門家は、臨床の場だけでなく、ヘルスケアに関わるあらゆる領域で求められるようになるであろう。彼らは生物医学・薬学・栄養学BioMedPharma&NutritionのD2Kサイエンティストと呼んでもよいかもしれない。先に述べたヘルスケアにおけるプル型のイノベーションのためには、こうした専門家をできるだけ迅速に養成し、同時に彼らのためによい職を用意する必要がある。
パイプラインの見直し
薬の開発には巨額の投資と長期にわたる開発年月と、厳しさを増す規制をクリアする努力が求められる。パイプラインは、そうしたリスクを低減するために製薬産業が年月を掛けて積み上げてきた、研究開発管理の知恵である。そのパイプラインの見直しについても、患者や生活者の参加が非常に重要な要素になる27),28)。とくに入り口である標的探索は、問題とする疾患の患者を多く集められるほど、探索の精度が上がってくる。臨床試験についても同様であり、さらに上市後の臨床で実際に使われた記録も、患者や生活者の協力がえられれば、対象者を増やすことができ、また、記録も医療施設内でない状況でのデータだけでなく、患者が努力して集めた自己のデータを活用することができる。つまり薬が実際に使われている状況でのデータ(Real World Data)を集めることができる。こうしたパイプラインの後の段階のデータや、パイプラインを出た後の薬のライフサイクルに沿ったデータを、次の薬づくりに生かす努力も今よりなされるようになるだろう。
このことは、あるR&D部門の仕事を、「入ってきた候補化合物をどれだけの割合で次ぎの部門に渡すかの割合で評価する」、というような管理が非合理になってくることを示唆している。現在のようなパイプラインのある段階での“Go”あるいは“No Go” の判断は、経営的にはやむをえないかもしれないが、科学的には妥当だとは言えなくなるだろう。そうした改革には、国や競合他社やアカデミアを横断した組織が必要かもしれない。
以上の変革を要約すれば、新しい発見や技術は、パイプラインのいろいろな順路の中の、絡み合った工程に吸収される。それぞれの工程は、自社で閉じていないで外部に依頼したり、外部と協力したりして進められることが多くなる。特許の視点からは、化合物の構造デザイン以外の部分は、外との協力で進められる。さらに多くの工程には研究的な要素が含まれうるから、多くの作業が直線的ではなく、ループが幾重にも絡み合った循環的な作業の流れになる。そのことがもっともわかりやすいのは、出発点となる標的の探索と、実際に薬が使われる環境における患者の選別化や選択や量的な加減や投与のタイミングを決めることである。
今世紀に入ってからの医療においては、個別化Individualized(Personalized)あるいは精密化Precisionが聖杯Holy Grail のような「聖なる目標」とされるようになってきた。そのためにヒトへの影響の詳細な分析が最重要課題になっている。いまや、市場に出す前にヒトへの作用をどれだけ解明できるか、市場に出した後にどれだけの情報を集めて最初の仮説を検証していくかが、大きな課題になっている。
ここにおいて、承認をめざしている段階での研究と上市した後の研究との連係は、より強化されるべきであろうし、臨床医を始めとする医療サービスの提供者との連係がもっと円滑に進められるべきだろう。さらに、我が国の場合は、薬の規制に関わっている薬剤師を管轄している行政部門と医師に影響力をもつ行政部門の連係が円滑である必要がある。要はすべての垣根を越えて「患者の利益に焦点を合わせた医療サービス」を標榜する体制をつくることが目標になる。だがインターネットとその関連技術の進歩は、そのことを可能にする技術と環境をすでに整えている。だから障壁は、そこに関係する専門家の心理だけということになる。
現在、薬は各製薬企業のパイプラインから創出されてくる。もし、製薬企業が健康ソリューション企業に進化しようとするなら、現在のパイプラインのモデルを見直すことが必要ではないだろうか。だがこのことには、新しい技術への対応とは性格の違った難しさが内包されている。

図2.並列やループが含まれるパイプライン。
社内で閉じていないで、外部との協力する部分が多く含まれている。
おわりに
最初にファーマの危機について述べたが、それは大手製薬企業の経営者にとっての危機だった。しかし彼らは自社完結型の事業からの脱却、冒険的な治療分野からの撤退、買収、合併、研究開発部門の閉鎖、余裕資金での自社株買いなどの経営術を駆使して、この危機に対処しようとした。国はトランスレーショナルリサーチとして、製薬会社が冒険したがらない難しい疾患の治療手段の探索を後押ししている。2014年から米国下院の超党派の委員会が始めた21st Century Curesの活動は、政治家がこうした問題に対して何ができるかを実証している好例である。またNIHと傘下のNCATSの患者中心の評価の研究や、欧州の製薬企業やIMIの「賢いパートナー」としての患者の教育プログラムなどは、患者を薬づくりのパートナーとする次世代に向けての新鮮味のある実験である。これらの例は、次世代ヘルスケアと新しい薬づくりに政治家と生活者が果たせる重要な役割があることを示唆している。
もちろん大学などのアカデミアは、次世代ヘルスケアにおける製薬企業の薬づくりの重要なパートナーである。問題は、現在の日本の政治家と生活者は、欧米における政治家と生活者のような役割を果たしていないことだ29)。それをどのように補うかである。
私は、薬づくり関わっているあるいは関心をもっている国やアカデミア、製薬企業や分析計測機器メーカー、情報系のメーカー、その他、研究や技術開発の関わっている研究者や技術者、その他の関係者たちが、この問題に関して率直な意見を交わし、相互に学習できるようなコミュニティをつくるのが解決の第1歩だと考えている。なぜなら、あまり語られていないが、ファーマの危機は任期が10年にも満たない経営者にとっての危機である以上に、より長い年月この分野に関わると思われる研究者や技術の専門家にとっての危機だと考えるからだ。

図3.薬のライフサイクル。 現在の研究費は上市までに偏りすぎている?
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神沼 二眞 氏
1940年神奈川県に生まれる。国際基督教大学、イェール大学、ハワイ大学に学ぶ。物理学でPh.D.(博士号)。1971年から、日立情報システム研、東京都臨床研、国立医薬品食品衛生研究所に勤務。パターン認識、医学人工知能、医療情報システム、生命情報工学、化学物質の安全性などの研究に従事。1981年には理論的な薬のデザインなどをめざす産官学の研究交流組織(現在のCBI学会)を設立。その後、広島大学および東京医科歯科大学で学際領域の人材養成に当たる。2011年にNPO法人サイバー絆研究所を設立。