はじめに
これから開発されようとしている薬が実際に使われ始めるのは早くても10年は先になると思われる。その時、薬を取り巻く医療の全体すなわちヘルスケアは、現在とは大きく趣を異にしているだろう。この意味で薬づくりは常に次世代のヘルスケアを視野に入れながら行われることになる。現在ビッグファーマは、「単にものとしての薬を売るのではなく、それらが使われる個々の患者に適した健康へのソリューションを提供する」という新しい理念を掲げている。これは、薬は承認されることがゴールではなく適切に使われる環境まで整える必要があることを意味している。その流れを前回は、「創薬、育薬から適薬へ」と題して紹介した1)。
だが製薬企業であれ、より広いサービスを提供するヘルスケア企業であれ、個人に適した健康へのソリューションの提供をめざすとすれば、薬だけでなく生活全体を視野に入れた、個人ごとの対処法(あるいは介在法、Interventions)への助言が必要になる。そのような広い視野に立った研究の基盤になるのがベースライン研究である。この小論ではベースライン研究を出発点として適薬の概念を他の介在法にも拡張していく試みを紹介したい。
NIHの「精密医療」から「皆のための研究」への動き
ヒトゲノム解読計画で米国の、そして国際チームの推進役となっていたフランシス・コリンズ(FrancisCollins)は、その後(2011年)NIHの長官となり、オバマの名前で呼ばれるプレシジョン・メディシン・イニシャティブ(PrecisionMedicineInitiative、精密医療推進事業)の推進役となった2)。プレシジョン・メディシンという言葉は研究者たちにも広く受け入れられるようになり、流行語になった。ところが大統領がトランプになって、オバマの(名前を冠した)政策をすべて卓袱(ちゃぶ)台返しし始めた。そのためか、NIHは“プレシジョン・メディシン・イニシャティブ”の代わりに“オール・オブ・アス研究プログラム(AllofUsResearchProgram)”という、「皆のための研究」とでも訳すべき研究事業の推進を宣言した3)。これはトランプと摩擦を起こさずプレシジョン・メディシンを実質的に推進するための予算を確保する、「名を捨てて実をとる」策ではなかったかと推察される。
この計画は2016年に、コホート研究をめざしたNIHの研究事業への1億3千万ドル、国立がん研究所(NationalCancerInstitute)への7千万ドル、合計2億ドルによってスタートした。このうちのNIHのコホート研究は、100万人の参加登録をめざし、多様な参加者のゲノムデータを始めとする、健康と疾患の理解に有用と思われる多様なデータを収集することをめざしている。
簡単に言えば、この計画はがんが先導するプレシジョン・メディシンへの取り組みを、他の疾患にも拡張していくことをめざしているようだ。その実施手段としては、急速に費用が低下しているゲノム解読、電子化された診療記録、携帯型の簡便な生体センサー(Wearables、ウエアラブルズ)、さらに高次のデータサイエンスなどの活用をめざしている。また患者や生活者など、広く国民へ参加を呼びかけている。そうした事業への多様な参加者たちを、一過性ではなく経時的、経年的かつ精密に観察し続けようというのが、「皆のための研究」だ。したがってこの計画には誰もが参加でき、それによって民族的な違いを越えた多様な米国民のデータが収集されることをめざしている。現時点での登録者は約20万人である。さらに、これらの参加者を「研究の対象者」ではなく、「研究のパートナー」として受け入れるということが、この計画の基本理念になっている。このことには新しい時代精神が感じられる。

図1 NIHはPrecision MedicineをAll of Us Researchに名前を変更した。それは適薬の概念を生活様式や環境への対応に拡大 する試みのようだ。
適薬研究の深化
適薬をテーマとしたこの連載の前回でも述べたように「適薬」とは「、薬を適切に使うための多様な努力」を意味する。コリンズらがプレシジョン・メディシンの最初の標的とした疾患はがんであった2)。したがって国立がん研究所に配分されたオール・オブ・アス事業からの7千万ドルは、ゲノム解読を基礎にしたがんの精密診療に使われたようだ。コリンズらは、プレシジョン・メディシンのがんに続く次の目標は、“適切な薬を、適切な量、適切な時間に使うため(rightdrug,rightdose,(attherighttime)totherightpatient)”の研究を他の疾患領域にも広げることだと述べていた2)。つまりは適薬の実践である。そのための優先順位の高い次の目標は循環器疾患である。この意味で、「皆のための研究」は、プレシジョン・メディシンあるいは適薬の理念をさらに広く実践する事業だ、と言うことができる。
我が国でも昨年の春以来、がんの精密診療に関わる仕組みづくりが急ピッチで進められている。すでに患者の腫瘍組織を試料とする(体細胞変異を検出する)遺伝子パネル検査を提供する大手企業のサービスがいくつか名乗りを上げている(週間エコノミスト、2019年3月12日号、p31)。
我が国において、がん以外の領域で適薬研究が切望されているのは、うつ病や認知症などの領域であろう。うつ病は若者から老人に至るまでの世代を越えた、深刻な病気になっている。回復が遅い場合、10種類以上の薬が様々な組み合わせで長期に使われていることがある。一方、高齢者人口の増大は、認知症の患者の増大に直結している。しかしその改善薬はまだ存在しておらず、医師には「進行を遅らせることが期待される」薬しか選択肢がない。しかも、その使い方については、担当医の経験知識に頼らざるを得ない状況である4)。厚労省も専門家の会議を重ねるなどして指針を出している5)。だがゲノム解読や精密医療が唱えられる時代にしては、客観的な議論の基礎になる臨床事例の収集と解析のための研究体制、すなわちTranslationalResearchの基盤が脆弱なように思われる。
これらの心や精神が関与する疾患は、鑑別や医薬品の効果の判定のための客観的な指標(バイオマーカー、Biomarker)を探すのが難しく、ある薬が効果的に使える患者を選択することや、効果を確認することを難しくしている6)。これらの疾患に続く適薬研究の対象となる疾患は、循環器、肥満、高血圧、糖尿病、腎疾患など、働き盛りの世代にも多い慢性複合化した疾患群であろう。その一部は生活習慣病とも呼ばれる。また免疫に関わる関節リウマチ、多発硬化症、アレルギー疾患、痛風などの疾患も、治療が長く続く慢性化した疾患である。
必要な大規模な調査研究
こうした状況を要約すれば、いずれの疾患領域においても、(1)患者をより詳細に分類することと、(2)患者をより経時的に(繰り返し)計測すること、が必要なことは明白である。患者を分類するためには、他人と比較しなければならない。より詳しく分類するためには、比較の対象をより大きくとらなければならない。このことが際立っているのがゲノム解読の場合である。
NIHの「皆のための研究」計画で、プロジェクトへの参加者を多くすることが重視されている理由の一つもここにある。そこでも米国らしく、人種間の差をしらべるため、例えばヒスパニック系の参加を募る努力もなされている。また最も基本的なことだが、先年NIHは生物医学実験における性差を考慮して雌雄、男女の数のバランスをとるべきだと注意している7)。こうした大規模な研究でも、腸内細菌をしらべるようになってきているが、それに関しても基準値を整備する動きがある8)。我が国でも、一般社団法人日本マイクロバイオームコンソーシアム(JMBC)が、健常人を集めた腸内細菌データベースの構築に動いている。
適薬の概念は、精密医療と表裏の関係にある。それを実践する基盤は整えられているが、それがさらに効果をあげるためには、まず計測や分析技術がさらに進歩する必要がある。ゲノム解読はその先導技術だったが、次はそれに随伴するようなRNA(転写物)、タンパク質、2次代謝物、エピジェネティックス関連因子、腸内細菌などの分子的な計測技術が、基礎研究の現場から臨床現場に移管され必要がある9),10)。腸内細菌との関係もあって、ここでとくに期待されるのは、メタボロミックス(2次代謝物の網羅的解析)の臨床応用への拡大である。
適薬概念の薬にあらざる介在法への拡張
次世代におけるヘルスケアや薬づくりがどうなるか、いろいろな推察の方法がある。我が国の場合、もっとも根源的な課題は増大する高齢世代への対処であろう。その世代では治らない病気が複合することが多くなる。その結果、薬にあらざる介在法、すなわち食事、サプリメント、運動、睡眠、瞑想やその他のストレス解消法(Mindfulness)、その他生活上のさまざまな工夫による対処が重要になる。そこでは、住まいや職場や生活圏の環境など、近隣環境(AmbientEnvironment)からの影響に配慮することや、孤立せず他者との何かのつながりをもって生活することなども重要になる。とくに、いわゆる気分障害、うつ病、認知症などでは、薬に依存しない対処法の相補的な役割の重要性が認識されている。
処方箋を必要としないそれらの介在法あるいは対処法は、「薬に依存しない介在法(Non-PharmacologicalInterventions,NPI)」と総称される。医薬品と同じように、薬に依存しない介在法に関しても、その効果や危険性を判定する研究が必要である。しかし、それらの多くは安全性に関しては、医薬品ほど厳格に規制する必要性はないと考えられているようだ。そのため効果があったという体験談だけが宣伝されやすく、危害事例が軽視されている、という警告もなされている11)。とくにサプリメントには、そうした事例が多い。逆説的だが、科学的に言えば、こうした効果と危険性の検証は規制のゆるい食事の方が、規制が厳しい薬よりも科学的には難しい。食材に含まれる化学的な成分は多いが、薬の認可は通常単一の成分が対象になるからだ。
いずれにしても薬に依存しない介在法の効果と安全性を検証するための方法論は、薬づくりの分野で長年にわたって培われ、磨かれてきたそれを手本としている。とくに食事に関しては、ゲノム解読の進歩を踏み台にした個別化医療(パーソナライズド・メディシンPersonalizedMedicine)を敷衍したパーソナライズド・ニュートリッション(PersonalizedNutrition)という概念が唱えられている(我々はこれを「個人への適食助言」と訳している)。
その基本概念は、薬と同じように、体内に摂取された食物の成分の影響や効果を、腸内細菌への影響、特定の細胞や経路網への影響、遺伝子発現への影響(Epigenetics)、タンパク質や代謝物への影響など、分子レベルで計測して判定する方法論を開発することである。そのような研究としてよく知られているのは、糖尿病に関係した食事の血糖値への影響と管理である12)。こうした研究を嚆矢として、個人に適した食事を助言するという意味での、個人ごとの「適食」をめざすパーソナライズド・ニュートリッション研究への関心が、とくにイスラエルや欧州などで高まっている13)-15)。フード・フォ・ミー(Food4Me、私の食べ物)計画は、その一例である16)。
適薬においても適食においても、適切な介在法を探すためには、介在の目安となる状態に対応した計測項目があると便利である。そうした計測可能な指標はバイオマーカーと呼ばれる。こうしたバイオマーカーが見つかれば、それを目安として介在を適切に制御することも可能になる。ここでもメタボロミックスのコストダウンが切望される。

図2 薬にあらざる介在法は多様であるが、「体の外からの『もの』の摂取」という視点からは、食、薬、環境中の化学物質の 分子レベルの影響解析には共通性がある。我が国では適食を数字化した実践法として四群点数法が香川綾(女子栄養大 学の創設者)によって提唱されている。
モデルとなる元祖エアロビックス
医食同源という言葉どおり、適薬(PersonalizedMedicine)と適食(PersonalizedNutrition)とは、研究方法論において共通するところが多い。だが運動は多少趣を異にしている。運動に関しては個人に適した運動処方がすでに半世紀前から知られていた。開発者はケネス・クーパー(K.H.Cooper)である。運動生理学を専門とする医師であった彼は、米国空軍に勤務していた時、操縦が不適格になったパイロットの再訓練のためのプログラムづくりに関わった。その研究の成果は1968年に、「エアロビックス(aerobics)」と題する本として出版され、広く一般に知られるようになった17)。
その実践理論は、(パイロットの任務に耐える)身体能力が最大酸素消費(摂取)量(MaximumOxygenConsumption,MOC)で計れること、その値は12分間に走れた距離とよい相関があること、それによって被験者の体力を5段階に区分し、それぞれの区分ごとに、走ること、水泳、サイクリングなどの運動の量をポイントに換算し、「1週間に30ポイントの運動をすれば体力が維持できる」、というわかりやすい内容だった。この実践的プログラムでは、MOCあるいは12分間走の到達距離がバイオマーカーであり、そのバイオマーカーで定められた目標を達成する手段である各種の運動が介在法であり、その実施量が点数に換算できるようになっている。つまりランニングと水泳とサイクリングとテニスなどを点数で比較でき、自分にあった運動を選択できるようになっている。
かくしてエアロビックスは、パイロットの再生訓練だけでなく、一般の人々にも広く受け入れられる健康法になった。しかし、その後、開発者とは別の人間たちによってエアロビックスをダンスと結びつけて商業化を図る動きが起き、その歪曲されたイメージが1980年代に我が国にも持ち込まれて定着してしまった。それでも元祖エアロビックスは、薬に依存しない介在法の研究の成功モデルということができる。
分析や計測の技術が進歩すれば、他の介在法についても、同じようなわかりやすいモデルが構築されうるだろう。例えば時計遺伝子の発見は、介在法に工夫を促している。食事の時間や睡眠への影響がわかってきたからだ。また、ストレスに対処する瞑想(Mindfulness)などについても、ファンクショナルMRI(fMMR)のような高次な脳計測技術とネットワーク同定のような洗練されたデータの解釈技法を活用する試みが始まっている。また嗅覚の研究が発展し、匂い物質で嗅覚から脳を刺激することで軽度な認知症の改善をめざす、というような研究もなされている18)。さらに身近な環境の影響、例えば汚染された空気や森林浴などの効果にも関心がもたれているが、そうした多様な対処法の裏付けとなる研究の多くは、まだ明日に続く課題になっている19)。
いずれの対処法にせよ、その開発には、体の状態と応答を計測する技術の進歩と大衆化(コモディティ化)、多くの協力者をうる仕組みづくり、そこから生成される膨大なデータの適切な管理と意味のある活用を可能ならしめるデータサイエンス活用環境の構築が前提になる。

図3 元祖エアロビックス(aerobics)は、個人に適した運動処方を数値化した最初の成功例である。現在のクーパーは、 健康な生活のための8則として、適度な体重の維持、健康な食事、ほぼ毎日運動、適切なサプリメント、禁煙、節酒、ストレ スのコントロール、包括的な健康診断を定期的に受けること、を助言している。
ベースラインとバイオマーカー
ここまで次世代ヘルスケアの視点から個人ごとの適切な薬の使い方、食事や運動のように薬に依存しない介在法の、個人にあった取り組みの現状を概観してきた。こうした流れを国の立場から着実に広げていこうというのが、最初に述べたNIHの「精密医療」から「皆のための研究」のように見える。このような動きには、次世代ヘルスケアを象徴する時代精神が反映さているように感じられる。また、そうした精神は米国だけでなく、EUや日本などの先進国においても、ほぼ共有されているように思われる。そこで基盤的な課題として浮上してきたのが、人種差も考慮した集団の中のヒトの正常値、基準値の把握である。また個人ごとに、健康から疾患に至る基準値からの逸脱を捉えることである。そのような正常値あるいは基準値は、ベスライン(Baseline)と呼ばれる。なお、臨床研究や薬効評価研究においては、ある薬を使い始める以前というような、研究を始める前の状態をベースラインと呼んでいる。そこでは、ベースラインは「出発点」というような意味で使われている。
健康と疾患に関わる、正常値あるいは基準値という意味でのベースラインを求めるためには、対象となる集団あるいは個人を選択し、そこで何か特徴となる指標を探して、それを計測する必要がある。そうした特徴量は、診断や治療の指標となる。そのような指標がバイオマーカーである。バイオマーカーの候補は、遺伝子、タンパク質、2次代謝物のような分子レベルの指標から、生理学的な特徴量、フェノタイプと呼ばれる全身的な特徴(形質)などまで、いろいろある。その「ベースライン」を、大規模なヒト集団によって求めようという試みが、次に述べるベリリー社(Verily)社の「プロジェクト・ベースライン(ProjectBaseline)」である。
野心的な「プロジェクト・ベースライン(ProjectBaseline)」
機が熟してきたのか、ヒトゲノム解読やオミックス研究で先端を走っていた研究者たちが、今や競って基準値や正常値を求めるという意味での、ベースライン研究に挑戦するようになった。その先頭集団を引っ張っているようにみえるのがグーグル(傘20)下のベリリー(Verily)社のプロジェクト・ベースラインだ(正確に言えば、グーグルは、アルファベット社の傘下になっているから、ベリリーもその下に位置する姉妹会社になるが、以下では便宜上、グーグルと総称する)。
同社のサイトでは、プロジェクトとして取り組んでいる事業を、(1)計測(Sensors)、(2)介在法(Interventions)、(3)健康事業のためのプラットフォームと道具の開発(HealthPlatforms&PopulationHealthTools)、(4)精密医療(Precisionmedicine)という4つに区分している。プロジェクト・ベースラインはそのうちの最後の精密医療に含まれている。この研究事業では、最初は千名、最終的には1万人の一般の生活者の経時的なデータを4年間集めることが目標にされている。
興味深いことは、この事業が、NIHが推進するPrecisionMedicineの名称を変更した後継事業である「、皆のための研究(AllofUs)」計画の一部になっていることだ。そうした枠の中で、ベリリー社が推進するこの研究事業には、スタンフォード大学、デューク大学(の医学部)、米国心臓病学会が参加して2016年頃に活動が開始された。その最初の関心疾患領域は、がんと循環器(心血管)系になっている。
グーグルの他の健康研究事業と同じように、プロジェクト・ベースラインに関する公開情報は多くない。それでも雑誌や新聞記事などから多少の情報が入手できる21),22)。例えばスタンフォード大学の共同研究者であるがん研究の専門家は、自分の10代の息子を脳腫瘍で亡くしたこともあって、血液や便や尿を採取して、その変化をしらべてがんを早期に発見する技術を開発するというような成果をこのプロジェクトに期待している。ノースカロライナ州にあるデューク大学では、学際的なチームが参加しているが、ここではとくに黒人やヒスパニック、アジア系の人たちが、このプロジェクトに参加するように働きかけている。このプロジェクトには、すでに2,000名が参加登録をしている。
一方でグーグルは、時計型のセンサー、動きを捉えるセンサーの埋め込まれた靴、センサー付のコンタクトレンズ、スプーンなどを開発している。そうした動きは、グーグルがプロジェクト・ベースラインをそうしたウエアラブルズによるデータ収集の実験の場として活用しようする意図があることをうかがわせる。またそうした試みにはグラクソGSK,ジョンソン・アンド・ジョンソン、サノフィのようなビッグファーマも関心を示しているという。

疫学的な調査から大規模ゲノム調査研究へ
感染症対策が典型であるが、ある地域で発生した病気の広がりの対策として、関連のありそうな(ヒト)集団を調べる疫学調査研究の歴史は古い。近年は、いわゆる生活習慣病と呼ばれる非感染性疾患の患者の増大への対処として、大きな集団の調査も行われている。なかでも人口の流出と流入が少ない地域の居住者を対象にして健康や医療に関わるデータを長期にわたって収集、解析しようという試みは(、前向きの)コホート研究と呼ばれ、多くの特色のある研究が知られている。最も有名なのは、米国の国立循環器疾患の研究機関が関与したマサセーッツ州フラミンガムで1948年から始まった住民を対象にした循環器疾患の調査研究(FraminghamHeartStudy)である。この研究では、多変量データ解析をもちいた虚血性心疾患の危険因子や予防法の推定が行われている。我が国では、九州大学が関与した1961年から始まった福岡県の久山町の住民を対象にした調査研究がよく知られている。日本での大規模な調査としては、1990年から始まった国立循環器病研究センターなどが参加した「多目的コホート研究」がある23)。
その後ゲノム解読技術が進歩してからは、得られたデータの解釈に多数の被験者が必要となることもあって、1000人、1万人、10万人、100万人など、これまでとは桁違いの参加者を募った大規模研究が始まった。そこには全国民(と言っても30万人程度)のゲノムデータを民間(deCODEgenetics社、後に破綻)に委ねたアイスランド、米国のNIHの100万人の参加のゲノム解読、10万DNAの解読をめざす英国のジェノミックス・イングランドGenomicsEngland計画などが含まれている。さらにゲノム解読に随伴するような、多数のヒトを対象とした、タンパク質や代謝物の網羅的な解析の試みが行われるようになった。我が国のゲノムデータを含むベースライン研究に近い集団研究としては、東北メディカルメガバンクと沖縄の久米島の住民を対象にした琉球大学らの調査研究プロジェクトがある。
生活者からみた大型研究への期待と不安
おそらくこれからは、大規模なヒトの集団を対象にした研究がもっと盛んになってくると思われる。だがNIHのオール・オブ・アス計画やベリリー社のプロジェクト・ベースラインには、際立った4つの未来志向の特徴があるように思われる。それらは、
- 一般の生活者に広く参加を呼びかけている、
- 体に付けられる簡便な計測機器(ウエアラブルズ)やIoTの活用をめざしている、
- ヘルスケアに関する参加型の様々な新しい研究ができるようなプラットフォームの構築をめざしている、
- 計画全体にICTの活用、中でもデータサイエンスの活用を重視している、ことである。
「グーグルにとってプロジェクト・ベースラインは、ヘルスケアにおけるグーグル・マップの作成だ」、という声もある。そのような未来志向の試みには、期待と同時に不安がつきまとう。以下そのうちの2つを挙げてみよう。
第1は、生活者に過度な検査を実施し、過度な情報を提供することでいたずらに不安が煽られる可能性である。例えば、化学分析や医療統計に詳しい専門家たちは、病気にあらざる生活者を長期にわたって観察を続ける(検査を繰り返す)研究は、疾患の予防につながらず、見過ごしてもよいような疾患を検知したり、被験者にむしろ害を及ぼすような介在をしたりする羽目になる怖れがあると警告している24)。彼らが批判の対象に挙げた例のひとつは100人を10ヶ月間、詳しくしらべるフッド(L.Hood)らの「健康な100名(HundredPersonWellness)プロジェクト」であり25)、もうひとつはプロジェクト・ベースラインだった。彼らがその根拠として挙げたのは、過去30年を越えるがんの予防的な検診である。オミックス(Multi-Omics)を活用したこうした高密度の観察研究は、過剰な診療(over-diagnosisandover-treatment)を招き参加者の利益にならない結果を招く可能性があるというのだ。
第2の懸念は、日本人の健康に関わるデータや情報が、グローバルな私企業や敵対的な他国に知られる危険性である。グーグルは健康に関わるグーグル・マップのようなものを作成しようとしている。その情報が他の私企業に流れないという保障はない。さらに敵対的な国家に流れるか盗まれる恐れがある。また我が国でも、国民の監視や徴兵の参考情報として使われうる。仮にそうした危惧がないという性善説に立っても、日本人に関わる健康データは、日本人の意志で集められ、日本人のために活用されるのが望ましい。日本人という人類史の系譜からの属性が、健康や疾患に関わっていることは明らかだからだ26)。
重要な参加者の役割
次世代ヘルスケアの実現を加速するための技術の進歩と社会の変化は加速している。NIHのオール・オブ・アス研究(AllofUsResearch)やグーグルのプロジェクト・ベースラインの大規模な研究にしても、参加者の立場からは懸念や不安があり、専門家の立場からは研究のデザインや結果の解釈と効用に関する多くの意見があろう。そのような専門家による議論は、現在の臨床研究のあり方や、FDAのClinicalTrials.govに登録されるような臨床研究のデザインや方法論の見直しにつながっていくように思われる。
だが、もうひとつ重要なのは、参加者の視点からの議論である。それはつまり、どうしたらこの種の試みに参加する人たちへの利益につながるか、という視点である。それは例えば信頼のおける「掛かりつけ医」が見つかるとか、がんのような専門性が高い疾患の場合、相応の医療機関の利用が可能になるとか、さらに自分の健康医療に関する記録をすべて保管でき、必要に応じて専門家の支援をえて参照し、活用できるようになる、などというような便宜につながる可能性である。その実現に関連した基盤環境の構築が、こうした大規模な研究事業においては、その一部として組み込まれてもよいのではないか。
NIHの「皆のための」研究やグーグルのプロジェクト・ベースラインのような研究は、これから日本でも試みられるようなるだろう。そうした研究では、参加者とのパートナーシップが極めて重要である。参加者は、そうしたプロジェクトに関わることで、次第に能動的に活動するようになるのが理想である。そうした参加者を、「参加することで活動的になる」という意味でプロアクティブ(Proactive)な参加者と呼んでもよいであろう。問題は、一般の生活者や患者を、プロアクティブな参加者にするにはどうしたらよいかである。
ウエアラブルズと機械学習の組み合わせ
そのような目的に役立つと思われる基本ツールがウエアラブルズ(Wearables)である。それは健康に関わる多様な生体の状態を簡便に計測でき、無線対応かつ携帯可能な生体計測機器である。ウエアラブルズは、Digital/Mobile/WirelessSensorsとも呼ばれる。それは、掌(たなごころ)コンピュータというべきスマホの普及で、それと連携したIoT(InternetofThings)環境の一部になることが容易になった。
そのウエアラブルズは、これまでは運動愛好家のアクセサリーというような存在だった。ところが最近は、製薬会社の治験や医療の施設外での状態把握という通常の医療を補う目的や、プロジェクト・ベースラインのような研究でも使えるのではないかと考えられるようになった27)-29)。とくに継続的観察が必要な、慢性的な痛みの記録や、心や精神疾患の継続的な状態の観察記録などへの応用の試みが盛んになっている30)。
現在、ウエアラブルズへの関心をさらに高めているのが、繰り返し計測したデータを、機械学習の技法などを使って解析し、身体状態に関わる重要な予測をする研究の発展である。すでに心不全(心房細動)の発症予測で成果が報告されている31),32)。同じように脳梗塞や癲癇などへの応用も試みられているようだ。
グーグルのプロジェクト・ベスラインだけでなく、NIHのオール・オブ・アス研究でも、ウエアラブルズは、スマートフォンのアプリ(Apps)と並んで、参加者のデータと情報収集の重要なツールとなっている。この計画では、身体的な活動、睡眠、体重、心拍数、栄養、水分補給などのデータが、質問調査や電子化された診療記録、身体的計測、血液と尿検査などのデータと一緒に収集される。そこで参加者個人によるデータ収集の道具となるのが、ウエアラブルズである。
本年1月、NIHは、皆のための研究においてフィットビット(Fitbit)社の機器とサビスの活用を前面に出した、“Fitbit
Bring-Your-Own-Device(BYOD)project”の立ち上げを発表した。この構想には、こうしたツールの強力な伝道者であるトポル(E.Topol)が率いる、スクリプス研究所の研究チーム(ScrippsResearchTranslationalInstitute)も加わっている。
このようにウエアラブルズは、参加者の数が多いプラットフォーム研究における、参加者集めの必須の道具になっている。またそこで収集された繰り返し計測したデータは、AI(機械学習)を使った予測などの研究に使いやすいという利点も認識されるようなった。当然、参加者同士のコミュニティ形成、迅速な知識や情報の交換の仕組みづくりにも向いている。それゆに、ウエアラブルズは次世代ヘルスケアの戦略的なツールであり、大きな市場創出を先導する基盤機器になるであろうという見方が急速に広がっている。
おわりに
ヒトゲノム解読計画が成功裡に完了した今世紀の初 めから、この計画のリーダシップをとっていたNIHなどでは、予測的(Predictive)、個別的(Personalized)、 予防的(Preventive)、参加型(Participatory)を、ゲノム解読技術が 先導する次なる医療の特徴とした。また精密医療(プレシジョン・ メディシン、Precision Medicine)を提唱し、それをNIHが先導する「皆のための研究」計画に発展させた。詳細は不明であるが グーグルのプロジェクト・ベースライン(Project Baseline)研究などは、そうした次世代のヘルスケア実現への最初の試みのように思われる。
我が国でも、同じような試みへの挑戦がすでに始まっている。ベースライン研究と呼ばれるこれらの大規模な研究計画に は、期待と不安がある。その不安を解消し、期待の部分を膨らませるためには、こうした研究の意義がより広く理解されることと、そこにヘルスケアの関係者だけでなく、ビジネスや行政や NPO/NGOの関係者や、地域住民が参加した、「研究のコミュニティ」が生まれてくる必要がある。そうした研究のコミュニティを「プラットフォーム」として、我が国が直面している超高齢 化と少子化に関わる課題に取り組む様々な実験から、次世代ヘルスケアにつながる本当のイノベーションが生まれてくることが期待される。
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神沼 二眞 氏
1940年神奈川県に生まれる。国際基督教大学、イェール大学、ハワイ大学に学ぶ。物理学でPh.D.(博士号)。1971年から、日立情報システム研、東京都臨床研、国立医薬品食品衛生研究所に勤務。パターン認識、医学人工知能、医療情報システム、生命情報工学、化学物質の安全性などの研究に従事。1981年には理論的な薬のデザインなどをめざす産官学の研究交流組織(現在のCBI学会)を設立。その後、広島大学および東京医科歯科大学で学際領域の人材養成に当たる。2011年にNPO法人サイバー絆研究所を設立。