はじめに
筆者は製薬会社の勤務経験が無く、また薬の研究開発に直接関わったこともない。ただ計算機あるいは今日の言葉ではICTを薬の研究開発に活用する研究者のコミュニティ(現在のCBI学会)を1981年に設立し2010年までその運営に関わっていた。またそれ以前から、臨床および基礎生物医学研究へのICT活用に関わり、今日のビッグデータや人工知能の医学応用の先駆的な仕事をしていた。また医薬品の規制の基盤となる研究に関わる国の研究機関にもいた。ここではWHOなど国連傘下の機関を結んだ化学物質の安全性に関わるレギュラトリーサイエンスのグローバルなネットの構築を先導した。そうした経験から学んだのは、薬づくりの実状を理解することは製薬会社の関係者以外の者にとって極めて難しいということである。
薬づくりの1980年代からの大きな変化は、創薬化学 Medicinal Chemistryの専門家だけでなく、分子生物学者が加わったことである。そして現在は臨床医学の研究者(とくに医師)の役割が大きくなり、ICT関連の専門家(データサイエンティスト)への期待が高まっている。つまり薬の研究開発の現場では、専門を異にする研究者が協力し合う機会がさらに増えていくと思われる。だが、そのような薬づくりへの新しい参入者たちが薬づくりの本質を理解することは、そう簡単ではない。その一つの理由は、研究者の専門がそれぞれ異なることであるが、より本質的な問題は、製薬産業が厳しい規制の下にあることと、それを含む健康医療サービスにも公共性という枠がはめられていることだ。
一方で、ゲノム解読に象徴される生命科学の基礎研究への公的な資金投入においては、成果として難病の解明や画期的な新薬が開発されるだろうという夢が語られる。だが、そうした期待を煽るマスメディアも薬づくりの実態を理解していない。同じことは、そのような研究資金を受けている研究者たちについても言える。この認識ギャップを埋めるために私たちは、2008年に一冊の本を翻訳した1が、それが縁となって同じ原著者たちが次に刊行した医薬品の研究開発の現状と未来を考察した本も翻訳した2。さらにこれらの訳書を参考にしながら、「薬づくりの新しいR&Dモデルを探る」という研究集会をシリーズで開催しながら、独自の情報収集と分析を行っている。このシリーズについては、案内サイト3を参照していただくことにして、以下ではそこでの議論を要約しながら、主に研究者からみた薬づくりの環境の変化について述べさせていただく。
製薬産業の危機とその対策
ビッグファーマのブロックバスターの相次ぐ特許切れがファーマ危機Pharma Crisisとして懸念されたのは2010年頃のことである。それまでの過去30〜40年の間、大手製薬会社は、2桁成長を続けてきた安心できる投資対象だった。その魅力が薄れてきたことは、ファーマ危機のひとつの側面である。投資家の期待に応えなければならない立場にいる経営者たちは買収や合併、それに伴う研究開発部門の(人員削減を含む)整理による経費削減と、それから生まれた余裕資金による自社株買いによる株価の押し上げ、というような経営戦略でこの危機に対処してきた。そうした経営策は株式市場に支えられた民間会社としての生き残り策として当然とも言えるが、それでは経営リスクの高い社会が必要とするような難しい薬の開発に挑戦できない。薬は国民の健康と生命を守るための武器に当たるが、その薬をつくれるのは民間の(製薬)会社だけだ。だが社会が必要な薬であっても、民間会社として採算が合わない薬は開発できない。ただし、武器を外国から買うことができるように薬も開発しなくとも外国から買うことができる。新薬の開発をしなくても、ジェネリックを扱って利益を上げることはできる。イスラエルやシンガポールならそれでもよいかもしれない。しかし米国、欧州、日本のような科学技術の分野で国際的な先導役を果たしてきた国では、自転車競走のような2番手に位置する走り方だけを露骨に続けていくことはでき難い。
そこでこれらの国では、製薬会社が長期かつハイリスクな研究開発を許容できる経営環境をつくる、患者数の少ない特定疾患に取り組む意欲を刺激する策を講ずる、実際の薬づくりの出発点となる標的を推定あるいは提示できる基礎研究をアカデミアが推進できるように研究費を増額する、薬を市場に出すための最後の段階にあたる第3相の臨床試験への取り組みへの障壁を低くする、薬づくりの様々な局面で製薬会社(Private)と国の機関(Public)と大学(Academia)などが連係する仕組みをつくる、などの支援策を打ち出している。そのような事業は、一般にトランスレーショナルリサーチ(Translational Research、以下TR)と呼ばれる。
簡単に言えば、この計画はがんが先導するプレシジョン・メディシンへの取り組みを、他の疾患にも拡張していくことをめざしているようだ。その実施手段としては、急速に費用が低下しているゲノム解読、電子化された診療記録、携帯型の簡便な生体センサー(Wearables、ウエアラブルズ)、さらに高次のデータサイエンスなどの活用をめざしている。また患者や生活者など、広く国民へ参加を呼びかけている。そうした事業への多様な参加者たちを、一過性ではなく経時的、経年的かつ精密に観察し続けようというのが、「皆のための研究」だ。したがってこの計画には誰もが参加でき、それによって民族的な違いを越えた多様な米国民のデータが収集されることをめざしている。現時点での登録者は約20万人である。さらに、これらの参加者を「研究の対象者」ではなく、「研究のパートナー」として受け入れるということが、この計画の基本理念になっている。このことには新しい時代精神が感じられる。
米欧と日本との違い
以上述べた薬づくりの新しい潮流は、すでに我が国にも及んでいるようだ。合併による合理化はすでに経験ずみである。バイオ医薬品のような新規事業は、バイオベンチャーと提携するか、買収する事例が増えている。こうなると製薬会社の究極の進化の形態として、資本と企画部門だけを残して、パイプラインの段階ごとに、すべて受託会社に外注し、販売も外部に委託する可能性が考えられる。会社は誰のものかという議論や、会社と従業員との関係については、米欧と日本とでは違いがある。それでも欧米の製薬会社の動きは、いずれ日本に波及するだろう。
しかし国の政策となると、それを魅力的にみせる言葉(Buzzword)が似ていても実態は大きく違う例が少なくない。例えば(、大学など)アカデミアのシーズを製薬会社につなげるという意味での国のTR支援は似ているが、TRやレギュラトリーサイエンスを担う国の研究機関の強化は行われていない。仕組みづくりとしては、事務か相談機能の強化策だけである。とくに米国のNCATS、欧州のIMIのようなTR研究を束ねる研究組織は日本にはない(日本版NIHと宣伝されたAMEDは、現在のところではNIHとは較べられない組織である)。TRを推進するやり方のエッセンスは、薬づくりにおける立場を異にする関係者たちStakeholdersの連係Partnershipであるが、我が国の場合、オープン性に乏しいPublic-Private Partnership、あるいはAcademia-Industry Partnershipで あることが多い。さらに米欧では、患者(およびその家族やその支援者団体など)の参加が、薬づくりの新しい潮流の特徴になっている。だがその重要性は、我が国ではほとんど議論されていない。
社会に開かれた薬づくりとヘルスケアへの 新しい参入者
以上述べた変化や、その兆候は、すでに我が国の製薬企業の関係者や研究者に感知されていることであろう。ここでは、さらに先を考えてみよう。ひとつの参考材料は、世界最大の薬の市場である米国における21st Century Cures Actと呼ばれる法律制定の動きである4。その発端は、米国のTR研究を加速することを目的とした下院の超党派の委員会の活動である。ここにはFDAやNIHの責任者も招聘されてオープンな討議が1年以上重ねられた。その法案は下院で賛成多数ですでに承認されている。その骨子は、向こう5年間でFDA予算を5.5億ドル(すなわち1.1億ドル/年)増額し、NIH予算を87.5億ドル(17.5億ドル/年)増額すること、TR研究を強化すること、新しい薬や医療機器の承認を加速すること、若手研究者の確保と育成に配慮することである。それらの実行案の多くが問題なく賛成されているが、(例えばAdaptive Clinical Trialのような考えを治験に採用することなどによる)薬と医療機器の承認を加速する事項に関しては、全部が賛成ではなく、懸念する声も多く残っている。いずれにしてもこの法案の行方には注意する必要がある。
米国では、オバマの国民皆保険政策の実施が大きな課題になっているが、いわゆるフィットネスやウエルネスビジネス(健康支援サービス)から、保険診療までを含むヘルスケアサービスへの新規参入(業)者が急増している。そこには小売、テレ通信、自動車、電機や家電、ICTその他の大手企業が含まれている。現在のところ、それらの企業が狙うサービスはヘルスケアの核心である医療診断と治療ではなく、その周辺での顧客のニーズに応える便宜の提供である。だが資本や行動力のある企業は、ヘルスケアのサービス自体の革新や、薬づくりまでを視野に入れた事業に意欲を示している5。
その中でも薬づくりの視点からとくに注目されるのは、ICTの分野でグローバルなリーダーシップを争ってきたIBM,アップル、マイクロソフト、Googleなどの動きである。情報計算機産業(IT)が情報通信産業(ICT)と自然に呼ばれるようになったのは1993/4年頃、インターネットが一般に開放されたことによる。その後のネットの普及には同じ頃に登場したWWWの技術の進歩が深く関わっている。それから約20年の間に、新しいネットを基盤とするサービスを提供する企業が登場し、短期間に世界的な企業に成長した。それらの企業の特徴は、我々の日常生活を変えるようなまったく新しいサービスを提供しつつ、独特のマネジメント能力を磨き豊富な資金を蓄えながら、新しい分野に果敢に参入する意欲をもっていることである。今のICTのインターネットへの依存は、生物医学がゲノム解読技術(NGS)に依存している状況に類似している。こうした潮流は、これから10年あるいは20年のうちに、薬づくりの環境Ecosystemを劇的に変化させるだろう。
薬づくりの環境変化とビッグデータ
販売や経営能力と資本を維持しながら、研究開発や製造部門は、限りなく外に移していくという現在のビッグファーマの行動原理の行き先を考えると、経営能力と資本とネットビジネスで鍛えた販売戦略に長けた活力あるICT企業が、ヘルスケア産業や薬づくりに参入して成功する可能性は高くなってきているように思われる。これらの企業は必要があれば、それぞれの分野の専門企業あるいは大学や医療機関のような団体と提携すればよいと考えているようだ。注目すべき動きをいくつか挙げてみよう。
FDAの勧告で顧客への直接(Direct to Consumer)サービスをやめた23andMeは、今年になってパーキンソン患者のうちでも薬開発の視点から有用と思われる患者の層別化の研究でGenentechと提携すると発表した。同社はIn ammatory Bowel Disease(IBD)の患者の層別化の研 究ではPfizerとの提携を発表している。
これより前になるが2013年には、データ解析サービス会社のOptumとMayo ClinicがOptlumLabsという研究データ解析組織を設立している。この組織は診療報酬や診療に関わる膨大なデータを集積して、患者の特性に応じた最良の対策を最小の費用で提供できることを究極の目標にしている。
このような研究の典型例は、新薬の承認が続いているが価格が異常に高くなっている抗がん剤である。米国臨床腫瘍学会ASCOは、学会を挙げて効果的な対策を低い価格で提供することを目的にしたデータ解析事業に取り組んでいる。最良の対策を最小の費用でというLearning Healthcareの考えは、少なくともがん領域では(Precision Oncologyと呼ばれる)すでに時代精神になりつつある。それは、“One size ts all” として薬を売るこれまでのやり方が見直される時代を象徴している。
つまり新しい薬の開発だけでなく、薬を適切に使うという研究もこれまでより格段に重要視される状況だ(図1)。それは例えば、薬が使われる患者の層別化の研究、薬の有効性を患者の視点から評価する研究、多剤の複合使用の研究、最適の治療を最小の費用で実施することをめざす研究などだ。ただしこの考えを一般の疾患領域で展開するためには、薬が使われる臨床におけるデータを研究のために収集、整理しておかねばならない。

図1 これからの薬づくりのR&Dでは薬の使い方や評価の研究の比重が大きくなる。
そのためのデータとしては、新薬開発における臨床試験やコホート研究のような「前もってデザインされ厳密に管理された研究からのデータ(Controlled Data)」だけでなく、日常の電子化された臨床記録(EMR: Electric Medical Records) も使われようとしている。後者のデータはReal World Dataと呼ばれる。さらに最近普及が著しい個人が自分の健康状態をスマートフォンから入力した記録や、体につけた計測機器のデータを集めた個人の健康情報(PHR:Personal Health Records)をも活用しようという動きがある6。このデータもReal World Dataである。もちろん厳密にデザインされ管理された研究からのPHRもこれからは増えてくるだろう(図2)。
こうしたビッグデータへの関心の高まりは、薬を適切に使う研究を重視する時代精神と共鳴している。こうした潮流もICT企業からの製薬産業への参入に有利に働いている。なおビッグデータに関してはNIHがビッグデータからの知識生成を目的とするBD2K事業を推進している。また傘下のNCBIによる臨床におけるゲノム配列の変異の意味をしらべるためのプラットフォーム(ClinGen)構築をも支援している。我が国でもTRとの関係でビッグデータへの関心が高まっている。出遅れをキャッチアップするという意欲は感じられるが、若手の人材が全く不足しており、彼らが活躍するための職(正規雇用の機会)も乏しいという構造的な欠陥がある。こうした人材に期待されるのは、もちろん計算機によるデータ処理であるが、それ以上に生物医学や医薬品開発において実験家や臨床家、その他の関係者と深く対話できる知識とコミュニケーション能力である。そのような人材を外部だけに求めてもうまく行かないだろう。

図2 薬の研究開発では薬が実際に使われている世界Real Worldのデータの活用が注目されてきている。第2と第3象限を繋ぐのは慢性疾患の3次予防研究。
パイプラインモデルを見直す日
私たちは、「薬づくりの新しいR&Dモデル」を探るための調査研究をしていると述べた。だが、パイプラインという製薬会社が築き上げてきた独特の仕事環境は、パートナシップの時代に突入しても、まだそれほど変化しているようにはみえない。もちろんその一部が、外あるいは外との協力の下で実施される事例が増えていることは容易に想像される。しかしパイプラインの枠の内部で仕事をしている研究者たちにとっては、変化が感知でき難いのではないだろうか。だが、これからの薬づくりにおいては、上市後の使い方の研究の比重が格段に大きくなるだろう。新しい薬の開発はそうした薬の適正使用の研究とつながるようになるだろう(図2)。さらにヘルスケアへのICTなど新しい参入者の急増と、事業提携の増大、疾患別の治療薬から老化に伴う慢性疾患をまとめて上流から治療する薬への関心の高まり(Googleが設立したCalico社)など、現実に起きている未来が、より鮮明になってくる日は案外近いとも考えられる。そこで求められる視点は、薬づくりから外の世界を見るのではなく、ネットの第2革命が実現している未来社会から薬づくり、あるいは健康へのソリューションを考えるという視点である(図3)。そうした流れの中で、パイプラインというモデルも、見直しが迫られてくる可能性が増してくるだろう。ネット技術の進歩による社会の変化を見れば、これから開発される薬が使われる10年あるいは20年後の環境が、現在とはまったく違ってくると予想してもそれほど滑稽なことにはならないだろう。

図3 薬づくりは、薬づくりのR&Dから外へという視点ではなく、近未来の世界がどうなるかという視点から考える時代になった。
おわり
危機か否かは議論のあるところであろうが、薬づくりが大きな転換点に入っているのは事実だろう。また変化はチャンスであろうが、研究者が落ち着いて仕事ができないような環境の激変は、研究者にとっては危機とも言えるのではないか。そうした研究者の「よい薬を世に出したい」という基本的なエトス(Ethos,行動規範、心情)への理解なくして研究開発はうまくいかない。この肝心なことが案外理解されていないように思われる。この小文が、製薬会社とそのソリューション企業研究者や関係者に、近未来についての「考える糧(Food for Thought)」を提供することになったならば幸いである。
参考文献と情報
- 神沼二眞訳、多田幸雄、堀内正監修、「薬づくりの真実~臨床から投資まで」 (日経BP社より7月18日新装版発売予定):Bartfai T and Lees GV (2006) Drug Discovery: from Bedside to Wall Street. Elsevier/Academic Press:
Amsterdam. - 神沼二眞訳、多田幸雄、堀内正監修、「薬づくりの未来〜危機を打破する R&D」、日経BP社、2014年:Bartfai T and Lees GV (2013) The Future of Drug Discovery: who decides which diseases to treat? Elsevier/Academic Press: Amsterdam
- ICA 連続セミナー「薬づくりの新しいR&Dモデルを探る」
http://join-ica.org/ws/14rdseminar.html - 21st Century Cures
https://energycommerce.house.gov/ - 21st Century Pharmaceutical Collaboration: The Value Convergence
https://www.pwc.com/us - K. D. Mandl et al. Driving Innovation in Health Systems through an Apps-
Based Information Economy, Cell Systems 1:8-13, July 29, 2015.

神沼 二眞 氏
1940年神奈川県に生まれる。国際基督教大学、イェール大学、ハワイ大学に学ぶ。物理学でPh.D.(博士号)。1971年から、日立情報システム研、東京都臨床研、国立医薬品食品衛生研究所に勤務。パターン認識、医学人工知能、医療情報システム、生命情報工学、化学物質の安全性などの研究に従事。1981年には理論的な薬のデザインなどをめざす産官学の研究交流組織(現在のCBI学会)を設立。その後、広島大学および東京医科歯科大学で学際領域の人材養成に当たる。2011年にNPO法人サイバー絆研究所を設立。