第5号「急ぐべき共創基盤の構築とICT人材の育成」

はじめに

この連載は、「薬づくりが大きな転換期に突入している」という認識に立って、それへの対処を考えることを基本テーマとしてきた。第3号では、「製薬企業においては、薬という『もの』を売るだけでなく、健康の『ソリューション』を提供するビジネスを模索する動きが顕著になってきた」、と述べた1)。前号では、そこに、ネット第2革命と人工知能の新しい大波がかぶさってきている状況を概説した2)。そこでは、さまざまな対処が試みられている。以下では、薬づくり全体からみた喫緊の課題として、ヘルスケアのイノベーションを担う「共創基盤(Platform)の構築」と、我々が「D2Kサイエンティスト」と呼んでいる「ICTの専門家の育成」の重要性について述べる。

薬をつくることから健康ソリューション提供への道

製薬会社が単に「薬をつくる」ことから「健康ソリューションを提供する」ことに、ビジネス・モデルを進化させようとすれば、当然イノベーションが必要だ。これについては、このシリーズの第4号で、多少の仮説的な考察を試みた3)。図1と表1は、それを簡潔にまとめたものであるが、参考のためにここに再録しておく。この表の左端には、(1)オープンコラボレーションへの対応、(2)薬の適正使用の研究、(3)薬でない介在法の研究、(4)生活者や患者との新しい関係の構築、(5)パイプラインの見直しなどの項目がある。これらのイノベーションの意味するところについて注意を喚起しておきたい。

図1 大手の製薬企業は、薬づくりから健康ソリューションの提供へとビジネス・モデルを進化させようとしている。そこで必要になるのはイノベーションへの挑戦である。ただし、ここでいう「ヘルスケア」は英語の “Healthcare”を意味し、英語のWellnessに限定さない。当然、国民健康保健による医療サービスも含まれる。

表1 製薬企業が健康ソリューション企業に進化するためのイノベーション課題3)
EpG:Epigenetics, GxE:GenomeとEnvironmentとの相互作用,GOP/N: Genome-Omics-Pathway/Network, PHR: Personal Health Record, EMR: Electronic Medical Record. PGx: Pharmacogenomics, TGx:Toxicogenomics, NGx: Nutrigenomics.
イノベーションの課題 個別課題 生物医学的な課題 情報計算技法
オープンイノベーションへの対応 新発見、新技術への迅速な対応のためのプラットフォーム構築 新発見、新技術の吸収と活用
Genome から EpG, G x E 研究へ限りなくヒトに近いモデル系の開発
共創の基盤づくり情報と知識の共有人材育成への協力
薬の適正使用の研究 個人に適した薬の選択
薬の最適使用時期と量の研究
PGx, TGx 研究
バイオマーカー探索
適切な多剤併用研究
時間生物学研究
N of 1 研究、Point of Care の普及
GOP/N アプローチ
PHRとEMRの統合
データ解析・パターン認識
知識処理・認知計算技法
自然言語処理、制御理論
薬でない介在法の研究 食事、運動、睡眠、身心制御、その他の生活様式の効果と危険性に関する分子的基礎の研究 PGx, TGx, NGx 研究
バイオマーカー探索
ヘルスマーカー探索
時間生物学研究
N of 1 研究、Point of Care の普及
GOP/N アプローチ
PHRとEMRの統合
データ解析・パターン認識
知識処理・認知計算技法
自然言語処理、制御理論
生活者や患者との新しい関係の構築 薬の研究開発への患者参加の促進
参加型ヘルスケアの支援
参加障壁の低減
倫理法律社会的課題
共創の基盤づくり
Point of Care + N of 1 研究
共創の基盤づくり
情報と知識の共有
学習機会の提供
データ解析・パターン認識
パイプラインの見直し 外部組織との協力 部分領域ごとのイノベーション 全体が ICT/IoT に対応

「イノベーション」という言葉は、ビジネスでもマスメディアでも、好んで使われるが、その多くは科学的な発見や進歩、新しい技術などによって新しい局面を創出する現状打破への期待を意味している。ところが、ヘルスケアに関わるイノベーションの本質は、「サービスに違いをもたらせるか否か」にある。だから一般に言われるイノベーションは、新知見や新技術に投資すれば、ヘルスケアのサービスに違いがもたらされるという期待を表している。だが、それは科学・技術に後押しされたプッシュ(push)されたイノベーションである。それに対して、この表で取り上げているイノベーションの課題は、サービスの受け手の立場に立って、「こうしたサービスが実現できないか」、という発想から提案された行動目標だ。これを仮に「プル(pull)型のイノベーション」と呼ぶことにする。

プッシュ型のイノベーションへの支援は、縦割り行政や伝統的な学会やアカデミアにとって取り組みやすい課題である。否、少なくとも馴染みやすく発想しやすい課題だと言える。なぜなら、それは、既存の科学や技術の区分や役所の既存の所管に馴染みやすいからだ。だがプル型のイノベーションには、異なる科学的な知見や異なる技術を組み合わせる必要がある課題が多い。だから、とくにスタートにおいては、学会の後押しや役所の支援を取り付け難い。したがって活動費も集めにくい。

薬をつくることから、健康ソリューションを提供することへとビジネス・モデルを進化させようとしている製薬会社が越えるべき最初のハードルは、プッシュ型のイノベーションとプル型のそれとの違いを正しく認識することではないか、というのが私の仮説である。この視点から浮上してくるのが、患者や生活者との新しい関係を構築することと、情報計算技法(ICT)を活用する、という2つの課題である。この2つの課題を明確に認識することが、薬づくりからヘルスケアのサービス提供者へと、製薬会社がビジネス・モデルを進化させていこうとする時、出会うことになる最初の関門のように思われる。

図2 科学技術プッシュ型イノベーションからサービス視点からのプル型イノベーションへ。左側はプッシュ要因、右側はプル要因。ここで重要なのは患者中心の思想である。計算技法Algorithmである人工知能は、上のソフトウエアの進歩に関係している。

次世代ヘルスケアはなぜ参加型でなければならないのか?

これら2つの課題のうち「患者や生活者との新しい関係を構築する」ことについては、前々号ですでに述べてあるので、ここでは、まずそれを引用しておく1)。「・・・欧米では生活者や患者を、薬づくりの関係者Stakeholderと捉える意識改革が急速に進んでいる。薬の開発では患者の声に耳を傾け、患者の参加を促し、患者の立場から効果や危害を評価すべきであるという声が高くなり、多くの議論がなされ、実験的な事業に官や民の資金が投じられるようになってきている4)
この考えは、「患者の参加は、薬づくりのブロックバスターになりうる」という言葉に象徴されている5)。生物医学研究においてヒトは、大きなモルモットではなく、仲間Partnersだという考えは、すでにゲノム研究者の間では広く受け入れられている6)(ここの引用文献の番号は、この号のそれに合わせている)」。このように、患者を薬づくりのパートナーとする、という流れは欧米では、すでに定着しているようだ。

この流れは、生物医学の進歩から考えてもごく自然である。なぜなら、ゲノム解読と随伴するオミックスOmics(網羅的解析技術)の進歩が標榜するゲノム医療は、患者の層別化をめざす精密医療Precision Medicineや個別化医療Personalized Medicine、さらには特定の個人を対照にした臨床研究や治験(N of 1 Study)を研究の視野に入れている。また、膨大な参加者を募ったゲノム解読とその解釈に関わる研究に参加した個人は、膨大なデータに埋没する存在ではあるが、個人として終生変わらぬ有用な遺伝子(生殖細胞系のDNA)に関わるデータをうることができる。だから、個別化医療は、参加型医療Participatory Medicineにならざるをえないのだ。

さらに現在、先進国と言われる日米欧のヘルスケアで脅威となっているのは、高齢者の増大に伴う複合化した慢性疾患の増大である。そうした疾患では、いわゆる薬だけの対策では不十分で、薬に依らない介在法(Non Pharmacological Intervention, NPI)を含む統合的な対策になるし、何よりも患者がその行動や生活様式Life Styleを変える、行動変容が基礎になるが、そのためには意志力 Will Power の涵養が必要だ。だが、医師に処方される薬と違って、薬に依らない介在法の選択は生活者や患者個人の選択に任される。しかし、その判断根拠になる情報知識は薄く分散している。また、それらの多くは広告媒体によって提供されている。だから賢明な判断を下すには、助けがいる。

一方で、いわゆる体に装着でき、スマートフォンなどにも接続できる、無線機能を備えた(Wearable/Wireless)機器の急進歩で、個人が自分の体の状態データを簡便に収集し、それらをクラウド環境で蓄積し、解析できる環境が整ってきている1)。こうした領域はDigital Healthとも呼ばれる。とくに複合化した慢性疾患の場合、このようなデータを、医療機関で収集蓄積されるデータと補完的に活用できれば、有用なことは明らかだ7)。このように次世代ヘルスケアが参加型でなければならない条件は整ってきたということができる。

患者や生活者にとっての情報知識源

だが患者や生活者が実際に医療の重要な担い手Stakeholdersになるのは、そう簡単なことではない。意欲があったとしても、患者や生活者が実際に医療の重要な担い手となるための障壁は高い。それらは情報知識、人的資源、活動資金の乏しさに要約される。いずれも重要な課題であるが、ここでもICTの進歩がこれらの障壁を劇的に下げるように働いている。

まず情報知識について言えば、一般の生活者にとって食品、健康食品、サプリメントなどの効用と危険性、薬の適正な使い方と効用と危険性、その他喫煙や運動や睡眠や瞑想(最近はMindfulnessという)や、その他のいわゆる生活様式Life Styleの効用と危険性、環境における化学物質の安全性(毒性)などに関する信頼できる情報と知識を入手することは、ヘルスケアに関わる極めて重要な前提である8-11)。しかし、そうした「科学技術の成果を活用するための情報や知識」を生成する、いわゆるレギュラトリー・サイエンス(Regulatory Science)に関わる公的研究機関の整備は、新発見、新技術の開発を追及する研究機関の整備と較べると、我が国においては極めて遅れている。それゆえ、ヘルスケアのサービスの提供者とサービスの受け手との情報と知識の非対称性も、先進国のなかで際立っているようにみえる。

しかも、このような情報や知識はもともと完全ではなく、科学や技術の進歩によって修正されるうることが運命づけられていることにも注意しておきたい。したがって継続的な研究と学習が重要であるが、規制に関わっている国(行政)の担当機関の違いによって、研究者のコミュニティ(学会など)にも見え難い垣根があり、サービスの受け手の視点からは、連係がとれているとはとても言い難い状況にある。

いずれにしても、情報知識の非対称性を解消するには、情報の入手を可能にすることと、患者や生活者が実際にそれらを入手できるようにする、という2つの努力が必要である。このうちヘルスケアに関する情報知識の多くは、少なくとも英文でなら、入手可能な状態になっている。これはネットの普及と、そうした情報をネットから入手できる環境をつくろうという米国やEUの情報公開への努力の賜物である。したがって、(主に英語による)情報は入手可能であるが、その活用を助けてくれる人的な資源が乏しい状況を解消することは、まだ残された課題になっている。

共創のプラットフォームの必要性

このことも含め、残る人的な資源の乏しさの解消については、ヘルスケアに関わっている国やアカデミアの研究者や実際に(臨床など)サービスを提供する側にいる専門家たちの支援が必要である。具体的には、科学技術の成果をヘルスケアに活用するための科学や技術、および社会的な仕組みづくりの研究を使命とする公的研究機関やアカデミアの専門家の支援が必要である。すなわち米国のNIH、 FDA、NIEHS(National Institute of Environmental Health Sciences)、EPAのような機関と似た業務に関わっている我が国の研究機関である。例えば(独法)医薬基盤・健康・栄養研究所、国立衛研、国立遺伝研、環境研、産総研、食総研、労働安全衛生研などがそれらに当たるだろう。

こうした国の研究機関のネットワークに、教育に関わっているアカデミアや、研究に関わっている財団法人などの研究機関と企業の研究者が加われば、官学産(あるいは産学官)の研究者や専門家たちが参加したミュニティが構築されうる。その結びつきを、一般の生活者や患者やその支援団体のようなNPO/NGOからのニーズが先導すれば、プル型のイノベーションを起こせる可能性が生まれてくる。

一般に産学官の研究者たちは、とかく新発見や新技術プッシュ型の発想をしやすい。しかも、彼らが研究費に応募しようとすると、行政や学会など、既存の枠にどうしても囚われてしまいやすい。生活者や患者には、そうした柵(しがらみ)がない。純粋に「こうあって欲しい」という願いから発想できる。だが、そうした目標に挑むためには、専門の情報知識と技術的な能力と設備や資金とが必要になる。それらをどう組み合わせたらよいか、既存の組織の枠にとらわれずに議論し、実行案を討議する場が必要である。それは生活者や患者が先導するコミュニティであるほうが効率がよい。それが共創のプラットファームの基本的な考えである。また、そうした基盤構築は、患者や生活者が参加した「参加型ヘルスケア」実践の前提条件になる。

さらに言えば、このような研究者コミュニティによる実践は、「科学や技術の成果を人々の健康維持に役立てるための」研究あるいは実験的な試み、すなわちTranslational Researchに他ならない。よく知られているようにNPO/NGOの泣き所は活動資金が乏しいことだが、この障害も、こうしたコミュニティで対処すれば、道が開かれてくる可能性が高い。

イコールパートナーシップの重要性

こうした実験的な事業と、これまでのヘルスケアに関わる多くの試みとの根本的な違いは、サービスの提供者と受け手とのイコールパートナーシップが存在するか否かにある。例えばICTによって医療を革新しようという事業は、これまでも枚挙に暇(いとま)がないほど多かった。しかし、それらのほとんどにおいて患者や生活者は、イコールパートナーではなかった。これは臨床における医師のパターリズムの蔓延と軌を一にする風土である12)

これまでの事業にみられるもうひとつの致命的な欠陥は、それぞれの事業が独立で、同じような目的の他の事業への波及効果が乏しく、生物医学やICTの猛烈な進歩に適応できないことである。そうした事業の限界の大きな原因は、サービスの受け手である患者や生活者がイコールパートナーとして参画していなかったことからくる、「想像力の不足」である。なぜなら、彼らこそ製薬会社を含むサービスの提供者が苦手とするプル型イノベーションの牽引役に他ならないからだ。

結局、プル型イノベーションには、これまでの産学官に加えて患者や生活者がリーダーシップを取っているNGOやNPOが加わったコミュニティの存在が必要だ。製薬企業もそのようなコミュニティを基盤として、患者や生活者との新しい関係を構築していくのがイノベーションを進めるための賢明なやり方ではないか、というのが私の仮説的な提言である。この状況を一歩進めようとするのが、産学官+NPO/NGOを基盤にした共創のためのプラットフォームづくりである。

図3 共創のプラットフォームの概念図。多様な関係者の参加が前提になっている。

共創のプラットフォームと迅速な学習環境づくり

そのようなプラットフォームの具体的なイメージを考えてみたい。このプラットフォームは、参加型ヘルスケアの実践を支える基盤となる社会的な仕組みである。だからその存在意義は、実践に参加する立場や専門(Skill)あるいは強みを異にする関係者たちが、円滑かつ効果的、効率的に協力できるような環境を提供することにある。当然、(インター)ネットあるいはクラウド
(Cloud Computing環境とCrowd Fundingの双方)の活用を前提にしている。したがってICT/IoTの専門家たちの協力が不可欠である。

そのような組織がうまく機能するためには、参加者間での対話がなされること、情報が共有されること、さらにメンバーたちが絶えず学習する習慣を身につけていくことが大前提になる。そこでは事務的な文書管理だけでなく、猛烈に進歩している生物医学と関連領域、およびICTに関わる知識の収集、とくに学術文献の収集、整理、利用の効率化をめざした環境づくりが不可欠である。ところが、そうした支援の仕事は、日本の学術研究機関のアキレス腱なのだ。だからここには、特別な工夫が必要である。そのひとつは、参加型ヘルスケアにおける、とくに重要な領域における迅速な学習環境を構築することである。

そうした工夫の参考になる試みが実践されているのが、がん診療における迅速学習環境づくりRapid Learning Oncology である13)。よく知られた実践事例は、CancerlinQと呼ばれる ASCO米国臨床腫瘍学会の試みである。同じような努力は、薬 に依存する治療でも、薬に依存しない介在法でも無視できない腸内細菌とその健康と疾病への関与に関する研究にも必要 である。そのような工夫は、さらに知識が爆発的に増大している他の疾患領域、例えば脳と心の疾患領域についても言える。
技術的に言えば、これは専門家のような働きをしてくれるAIをヘルスケアに持ち込もうという試みではなく、人工知能を含むあらゆるICTを活用して、一般の生活者や患者から臨床の専門家や基礎研究者を含む、参加型ヘルスケアのあらゆる関係者Stakeholdersの迅速な学習を支援しようという試みである。そのような試みは、同じAIでも、Augmented Intelligence(機械を使って拡張されたヒトの知能)と呼ばれる研究になる。

図4 腸内細菌(ヒト共生微生物)研究の発展は爆発的である。ゆえにがん領域と並んで、迅速学習Rapid Learningの優先課題になっている。

共創のプラットフォームへの期待

生活者がこのコミュニティに期待することは、例えば次のような機能である。

  1. ヘルスケアの基盤となる生物医学の基礎知識、わかりやすい解説、とくに公的な研究機関や大学などが生成管理している信頼のおける情報知識への案内。
  2. 健康に関わる研究に生活者が参加する場合の、情報やデータの収集と管理の課題、とくに安全性(Privacy/Security)を担保する技術、および倫理的、法律的、社会的な課題(Ethical, Social and Legal Issues, ELSI)に関わる情報知識への案内。
  3. 我が国でも急速に広まってきた生活者に直接宣伝されている(DirecttoConsumers,DTC)遺伝子やゲノム検査の有効性と危険性についての知識の入手。また、DTCサービスを活用して個人でも実施できる生理学的な計測(検査)や化学的な検査Chemical Lab Testsの精度(信頼性)と危害性に関わる情報知識の案内。
  4. ヘルスケアを指向したスマートフォンやタブレットPCのアプリ(MobileHealthApps)のアルゴリズムの透明性と信頼性、とくに対処(介在)法などを選択するための意志決定をうながす助言の信頼性と有効性、およびそうした機器を医療用に認定する基準などに関わる情報知識への案内。
  5. 普通の食物や健康食品やサプリメントなどの効果と危険性、効果判定などに関する研究の信頼性に関わる情報知識への案内。食品(成分)の健康への効能HealthClaimに関わる科学的妥当性と問題点、とくに機能性表示食品制度の科学的評価に関わる情報知識への案内。低炭水化物食、高脂肪食、カロリー制限食など、特定の食事に関する個人の立場からの研究の妥当性
    (有用性と危険性、信頼性)に関わる情報知識への案内。その他より一般的にG(ゲノム)x E(食事を含む環境)= T(健康、疾病状態)の考えに沿った様々な環境因子の寄与に関する研究の信頼性に関わる情報知識への案内。
  6. 専門家の協力をえながらも、ヘルスケアに関わる生活者が先導する、参加型ヘルスケアに関わる研究(Citizen Science)の質を担保するための研究計画の事前検討への助言、および研究成果を例えば米国FDAのClinicalTraials.govに登録するための規約(Review of Protocol Submission)などの検討に必要な知識の入手への助言。

なお、このプラットフォーム構築への参加を呼び掛けたい対象者の例については、図3を参照していただきたい。

現代のアスクレピウス神殿とそこで働くICTの専門家たち

次に、次世代ヘルスケアを実現するというプル型イノベーションの推進に不可欠な情報計算技法(ICT)の活用について提言したい。私のこの提言は、30数年前に遡る体験に基づいている14)
当時、私は東京都臨床医学総合研究所の疫学と医療工学という2つの研究室を統合した計算機(情報計算技法)を活用する研究グループを、医師職の研究者の依頼で、実質的に統括していた。私はその研究所に移る1976年頃までに、パターン認識、エキスパートシステム、制御理論の医学診断治療への応用の仕事をしていたが、この研究所に移ってからは、統計解析、波形解析、画像解析、化学物質の毒性予測、分子グラフィィクス、線虫の(フェノタイプ)スクリーニングや胚発生追尾装置(4-D画像解析)などの応用を、臨床医でもある研究者からの依頼研究や、自主的なシステム開発や基礎生物学の実験として、取り組んでいた。

このように仕事の幅が広がったのは、必ずしも自らの意志ではなかったこともあって、自分たちのグループの目標が混沌としてきたように思えた。その時浮かんだのが、「自分たちは、医学や医療で出会うあらゆるデータを計算機で扱える環境を構築する」という目標だった。それからは、自分たちの活動を「現代のアスクレピウス神殿」をめざすという意味で、アスクレピウス・プロジェクトと呼んでいた。それは、「古代ギリシャの人々は、病が治ると、自分の病状を記してこれをアスクレピウス神殿に奉納した。それを集めて分析したのが、医学の祖と言われるヒポクラテスだ」、という話を読んだことがあったからだ。この話の真偽のほどは今もって検証していない。だが計算機の医療への導入のめざすところは、「病気の記録をすべて計算機に入れて、診断と治療に関する正しい、できれば最適な意志決定ができる知識を生成する」ことに尽きるという考えは、今も変わっていない。

だが、当時は、医学や医療で出会うあらゆるデータを計算機の入れるのは容易なことではなかった。皮肉なことに、入力が最も簡単だったのは、データ量としてはもっとも多い画像(撮像)記録だった。もっとも手間取ったのは、カルテの記述情報だった。だが、ディジタル医学は最早現実になった。けれども、それらのデータを計算機で扱える専門家集団は、我が国では、まだ十分育っていないようにみえる。ここで重要なのは、これまでの医療の枠の中にビッグデータであれ、機械学習であれ、AIであれ、情報計算の技法を持ち込むことを、目的とはしないことだ。本当の目的は、医療あるいはヘルスケアの仕組み自体をネットやIoT、クラウドなどICTによって再構築することである。

この違いは、軍隊を考えて見れば明らかだろう。ヘルスケアとは、つまるところ疾病との戦いである。現代の軍隊はCommand & Controlという全体的な指揮命令系統によって動かされる。威力のある兵器は重要だが、それらをどのような局面で、どのように使うか、あるいは使うように人や資材を適切に手配する仕組みをつくるかが、それ以上に重要なのだ。もちろん軍隊は上からの命令で動くことが強制されている組織だが、ヘルスケアの組織は、それほど単純ではない。そこでの意思決定の多くは全体ではなく、個々の局面における組織の責任者によって下されることが多い。この点でゲリラ戦に似ている。だから上の比喩はいささか乱暴だが、頭の体操にはなるだろう。

どのような専門職が必要なのか

ヘルスケアのイノベーションを、現在および未来のICTを活用するという視点から考えた時、その担い手となるICTの専門家をどう育てるか、あるいは確保するかが、大きな課題になる。彼らは、診療の質をあげるために、医師やその他のスタッフ(コメディカル)の意思決定や行動への助言をする仕事に関わる。その職能の中核になるのは、(診療に関わる)データから知識を抽出して
(fromdatatoknowledge;D2K)、それをサービスに還元する仕事である。これは、Translational Data Scienceと呼んでもよい、高度な判断を伴う経験に裏打ちされた仕事Artsだろう。そこには、データの扱いや、データ解析、モデリングなど、情報計算の多様な技法が含まれている。未来の病院では、そのような(データサイエンスの)専門家を正規の職員として多数雇うか、そうした専門家集団と契約して、継続的、安定的に協力してもらう体制をつくる必要があるだろう。

彼らは、医療関係者、とりわけ医師と協力して、その意志決定の基礎になる、いわゆるEvidence-Based Medicine(EBM)や Evidence-Based Supplement (EBS)に関わる、計測からデータの解析や実験の評価技法に関する専門家である。言うまでもないがEBMやEBSは、臨床医学、医薬品開発、予防医学や健康食品やサプリメント研究の聖杯HolyGrail的な課題である。だから彼らには、臨床医や基礎研究者と深い対話ができるだけの生物医学の知識と対話の能力が要求される。数学の中でもアーベルやガロアのような若い天才が現れる数論などと違って、統計学には天才がでないと言われる。それだけ経験が必要だという意味だ。同じように、上でいうデータサイエンスの専門家の育成も、即席は効かない。臨床家と同じように経験を積む必要がある、だから時間が掛かるのだ。

このような専門家は、臨床の場だけでなく、ヘルスケアに関わるあらゆる領域で求められるようになるであろう。彼らは生物医学・薬学・栄養学BioMedPharma&NutritionのD2Kサイエンティストと呼んでもよいかもしれない。先に述べたヘルスケアにおけるプル型のイノベーションのためには、こうした専門家をできるだけ迅速に養成し、同時に彼らのためによい職を用意する必要がある。

図5 ICTを基盤とした現代のアスクレピウスの神殿の最初のイメージ。筆者らのチームが東京都臨床医学総合研究所開発していた「医学のための明日の計算センター(1985年頃)」。

橋頭堡となる領域

現在のヘルスケアを次世代ヘルスケアに本格的に移行させるためには、多数のD2Kサイエンティストを迅速に育成しなければならないのは、明白である。だが、意図的な努力をしない限り、そのような動きは顕著にはならないだろう。それを加速するひとつのやり方は、Translational Researchがもっとも渇望されている領域に努力を集中し、成果をあげることだ。そのための軍事用語でいう「橋頭堡(きょうとうほ)を築く」ための疾患領域としては、以下のような分野が候補として挙げられる。

がん:
最初に挙げられるのはがんの診療Oncologyである。実際、よく知られているPrecisionMedicineの最初の目標はOncologyである。この数年、NGSによるがん組織を用いた体細胞変異の検出技術の進歩や、抗体医薬や免疫チェックポイント阻害剤などの開発で、適切な薬(あるいは治療法)を適切な患者に実施する環境の整備が焦眉の急というべき課題になっている15)
腸内細菌:
もうひとつの領域は、腸内細菌を含むヒトの共生微生物の検出と、その健康と疾病との関わりに関する研究分野である。ここでも培養に代わる配列解読技術の急進歩で、ある環境に存在する微生物の全部Microbiota、あるいはそこに含まれる遺伝的素材の全体Microbiomeをしらべる技術が急速に進歩している。さらに、それらの微生物が産生する代謝物Metabolitesや、それらが血流に乗って遠隔の器官や組織に運ばれることで影響を受ける臓器間の相互作用を研究する流れが急拡大している。そうした研究の出発点としては、腸を基盤とした肥満、2型糖尿病など、免疫や炎症とも関わる代謝性疾患の研究であるが、その研究の枠は肝臓、腎臓、心血管系、皮膚、脳神経系などの疾患に急拡大している。ここでも基礎研究の成果を、臨床での実践に迅速に移転する必要性が認識されているが、D2Kサイエンスの専門家の不足が強く指摘されている16-17)
脳と心:
もうひとつの領域は、うつ病や認知症など脳と心が関与した健康と疾患に関わる領域である。とくに難攻不落の感のあるアルツハイマー疾患は、その象徴的な課題領域である。この領域は、がんと並んで、医薬品開発としても最も野心的な領域であるが、それだけでなく、パターン認識や人工知能など認知科学Cognitive Scienceあるいは認知計算技法Cognitive Computingの研究者たちにとっても最も魅力的な領域になっている18-20)。この分野における生物医学の研究者と工学者との蜜月が最初に生まれたのは第二次大戦の直後のことであった。そのような関係と関心が再現されたのは1980年代である。現在の蜜月は、3度目となるが、この融合領域に関心をもっている情報計算技法の専門家は多い。その象徴はConnectome(神経経路網)研究である。この領域で工学者側の意欲を受け止めるような出会いの機会をつくることが課題であろう。

おわりに:ファーマ危機は研究者の危機

我が国の産業界や科学技術の予算づくりには、眼に見えない固い構造がみられる。しかし、少なくとも競争原理の働く産業界では、これまでの構造が崩れ始めている。我が国の産業界は、ライバルであり、助け合う仲間であるという関係を保ってきた。インターネットが民間に開放された1994年以後に誕生し、急成長してきたICT産業では、こうした構造が弱いようであるが、それが強固だった多くの産業界では、今、「産業構造の液状化」と呼べるような変化が、急速に進行しているようだ。自動車や家電産業は、その典型だろう。

資金と経営能力以外は、外部に出そうとしている大手製薬会社の動きは、これまでの製薬産業構造を激変させているように見える。そうした状況は、合併や買収や外注化や自社株買いなど、経営者の腕のみせどころかもしれない21)。しかし、そうした変化は、多くの従業員とくに研究職の人たちにとっては、適応することが難しい状況を生み出している。ひと頃言われた製薬業界の危機Pharma Crisisは、実は経営者にとっての危機ではなく、研究者にとっての危機になっているのだ。そうした危機にどう対処したらよいかが、働いている個人にとっての新しい課題として浮上している。

この小論では、イノベーションをテーマにした。イノベーション、つまりInnovation革新を提唱したのは、オーストリアの経済学者シュンペーター(J. A. Schumpeter)である。資本主義には、絶えざる革新が必要であり、その担い手は大企業ではなく、ベンチャー企業Start Up Companyであると説いたのは、小室 直樹(例えば、彼の本、資本主義のための革新、日経BP、2000 年)である。シュンペーターは、オーストリア政府の高官だったドラッカーP. Druckerの父親と親しかったから、ドラッカーは子供時代に、家に来たシュンペーターとよく会っていたそうである。ドラッカーの経営の本には、医療や病院がよく引き合いにだされる。医療機関のマネジメント(サービス)の原点は、「患者はどう思うか」だというような話がよく紹介されている。彼はまた、IBM(International Business Machine)の創業者(初代)ワトソンが、「器械を売るのではなく、何か『情報処理』に関わる事業をするのだ」と、早くから言っていたと回顧している。ドラッカーはまた知識社会KnowledgeSocietyの到来を早くから予言していた。東京都の医学研究所にいた30代の私が、「医学研究機関の役割は、医療サービスへの違いをもたらすことだ」、と認識できたのは、彼の著作をよく読んでいたお陰だ(彼の著作のエッセンスは、P. F. Drucker, The Essential Drucker, Harper, 2001.)。

研究者を取り巻く環境は、ますます変化が激しく、適応が難しくなっているが、その底にある流れをつかめば、起きている現実としての未来を多少とも認識できるのではないか。この小論がそうした頭の体操のヒントになったら幸いである。


参考文献

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PROFILE
神沼二眞

神沼 二眞 氏

1940年神奈川県に生まれる。国際基督教大学、イェール大学、ハワイ大学に学ぶ。物理学でPh.D.(博士号)。1971年から、日立情報システム研、東京都臨床研、国立医薬品食品衛生研究所に勤務。パターン認識、医学人工知能、医療情報システム、生命情報工学、化学物質の安全性などの研究に従事。1981年には理論的な薬のデザインなどをめざす産官学の研究交流組織(現在のCBI学会)を設立。その後、広島大学および東京医科歯科大学で学際領域の人材養成に当たる。2011年にNPO法人サイバー絆研究所を設立。

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