はじめに
この連載は、「薬づくりが大きな転換期に突入している」という認識に立って、それへの対処を考えることを基本テーマとしてきた。前々回1)と前回2)では、ビッグデータや人工知能やクラウドなどICTの大波への対処について考察した。薬づくりは、それが使われる10年ないし15年先のヘルスケアの状況を念頭に置いて構想される。その視点にたって今回は、簡便なモデル動物を使った研究を、とくに猛烈に進歩しているICT活用も交えて考察する。
アストラゼネカとグーグルの動き
本論に入る前に最近の気になった動きを2つ紹介したい。ひとつは欧米のビッグファーマであるアストラゼネカ(AstraZeneca)社の医薬品開発(R&D)の見直しに関わる動きである。それは薬づくりの分野でよく知られたReview誌に発表されたR&Dに関する、「5次元の枠」を基盤とする見直し活動である3),4)。同社は、2005年から2010年期におけるR&Dに関する生産性を、同業他社との比較から低いという認識をもとに、2011年から戦略的な見直しを開始した。その基盤になったのは、適切な標的(right target)、適切な組織(right tissue)、適切な安全性(right safety)、適切な患者(right patient)、適切な潜在市場(right commercial potential)を選択する、という発想である。彼らはこれを「5つの適切枠(5 R framework)」と呼んでいる。そうした努力の成果は、第III相を成功裡に完了した薬候補の数が、2005年から2010年期では4%だったのに対し、2012年から2016年では19%に向上したことで実証されたと言っている。
同社の取り組みは、R&Dパイプラインのそれぞれの段階で、より適切な対策を探るという個別改善的な戦略であり、一言では要約できにくい地味な努力の積み重ねのようにみえる。それは例えば、開発対象をより絞り、より深い研究を行い、コンパニオン診断などを重視して適切な患者を選択する、というような工夫である。その底にあるのは、より科学的な厳密性を追及し、協力関係を重視し、ゲノム解読や精密医療(Precision Medicine)、人工知能のような新技術の活用を図るという「改善の精神」を重視する姿勢である。こうした動きは、現在の薬づくりのイノベーションには、万能の妙薬(対策)がないことを示唆しているとも受け取れる。
もうひとつの動きは、アルファベット(Alphabet)と社名を変更したグーグルの「健康(Healthcare)と薬づくり事業」への進出である。グーグルは、「長期的な視点で健康寿命への対処法の開発をめざす」として、研究会社カリコ(Calico)を2013年に設立した。当時(同年9月30日)のタイム誌は、それを「グーグルが不死事業に挑戦する」と衝撃的に報じた。だがカリコのその後の動きはベールに包まれていた。
一方でアルファベットは、ヘルスケアのイノベーションを志向するベリリー社(Verily Life Sciences LLC)と提携した5)。そのベリリー社のサイトでは、複数の大学が参加したベースライン研究(Project Baseline)を始めたと書かれている6)。こうしたビッグファーマと巨大なICT企業の動きは、次世代ヘルスケアと薬づくりの動向を占うヒントを与えてくれているように思われる。また、こうした新しい動きは、この連載の今回のテーマである簡便なモデル動物を使った研究とも無縁ではない。
簡便なモデル動物とは?
植物学と動物学に分かれていた生物学を統一する学問として登場したのが分子生物学だ。その分子生物学研究は、「ある現象の解明には、それが観察されるもっとも単純な生物を材料にする」ことを、指導理念としてきた。実際、遺伝的な解析手法がショウジョウバエや細菌(大腸菌)とそれに寄生するウィルス(ファージ)の研究で発展し、多細胞動物の発生に伴う細胞の3次元集合体の追尾や細胞系譜の決定にウニや線虫が使われ、ヒトを特徴づける脳や神経系の研究にヒトやマウスやウミウシだけでなく線虫やハエやゼブラフィッシュのような小型のモデル動物が使われてきた。
とくに1970年代には、ベンザー(Seymour Benzer)らが、行動研究にショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を使い、ブレナー(SydneyBrenner)らが発生研究に線虫(Caenorhabditis elegans , C.エレガンス)を使い出した。ブレナーは、初期の研究申請書に、「我々は多細胞生物の発生過程を研究したいと考えているが、そのためにライフサイクルが短く、培養が容易で、ちょうど微生物のように大量な扱いが可能な小型で、細胞系譜やパターンの詳しい分析ができ、さらに遺伝解析が可能な程度に細胞数が少ない有望な生物として、C.エレガンスを選択する。」、と書いている7)。
少し遅れて、ほぼ同じような利点が認められた小型の熱帯魚であるゼブラフィッシュZebrafish/Zebra Danio (Danio rerio)が登場した。そのパイオニアはストレイシンガー(George Streisinger)やニュスライン=フォルハルト(Christiane Nüsslein-Volhard)らである8)。かくして、これらの生物は簡便な実験動物の御三家になった。それでも薬づくりや医学の関係者にとって、こうした実験動物は、最初は基礎的な生物学者のおもちゃのよう存在だった。そうした認識が改められたのは、1990年代のヒトゲノム解読計画によって、これらの実験動物もヒトも全ゲノムの配列が決定されゲノム医学の概念が定着してからだ。
生物種 | 大きさ (m) | 遺伝子数 | 神経 細胞数 | 世代交代 時間(日) | 産仔数 |
---|---|---|---|---|---|
大腸菌 E.coli 酵母 Yeast | 10-6 | 100 | 100 | 10-2 | 100 |
線虫 C.elagans | 10-3 | 103 | 102 | 100 | 102 |
ハエ Fruit Fly Drosophila melanogaster | 10-3 | 103 | 105 | 101 | 102 |
ゼブラフィッシュ Zebra sh | 10-2 | 103 | 107 | 102 | 102 |
マウス Mouse | 10– | 104 | 108 | 102 | 101 |
ヒト | 100 | 104 | 1010 | 104 | 100 |
特徴的な実験スタイル
実験材料としての簡便なモデル動物には、以下の様な特徴がみられる。
- 遺伝解析レ研究に向いており、変異株を効率的に作成し、保存し、供給する技術と体制が整備されている。
- 寿命が短いため、繰り返し実験を迅速に行える。また親になるまでの期間が短く、産仔数(雌が生む子供の数)も多い。
- 初期の発生過程を光学顕微鏡で観察、追尾でき、その細胞集合体の構造や細胞系譜のデータや知識ベースが作成されている。
- 多数の個体を用意して、それらに化合物を作用させたり他の刺激を与えたりして、体への影響をしらべたり(Chemical Biology)、行動の変化を観察したりする実験を効率的に行える装置が開発されている。
- 遺伝子やタンパク質、細胞内の信号伝達経路網(Signal Pathway/Network)などに関するデータや知識が豊富に蓄積されており、それらを進化や発生からの視点を含め、相互に比較参照しながら解析を進めることができる環境が整備されている。
- 研究者のコミュニティが成熟しており、比較的短時間かつ低コストで実験技術を習得できるような教本や教程が用意されており、研究人材の迅速な養成が可能である。
- 計算機(ICT)の活用に向いている。
今世紀になってからは、このような特徴を生かした遺伝子やタンパク質、それらが関与した経路網、ヒトの疾患と分子レベルで類似性があるモデルの開発など、先端的な研究が簡便なモデル動物を用いて行われるようになった。そうした知見は当然薬づくりにも使われうるが、薬づくりに関しては、とくにフェノタイプスクリーニング(Phenotypic Screening)や、既存薬の適応拡大 探索研究(Drug Repurposing)が試みられている9)-14)。もちろんこうしたスクリーニング研究は、疾患の分子的な機序解明の出発点でもある。同様なアプローチは、さらに化学物質の安全性(毒性)評価でも試みられるようになっている15)。
簡便なモデル動物を活用した今日の研究は、あるグループが得意とする特定のモデル動物だけでなく、複数のモデル動物を組み合わせ、相互参照するような基盤的なネットワーク環境を構築する戦略的な取り組みに発展している。“The Model Organisms Screening Center for the Undiagnosed Diseases Network”は、そうしたプロジェクトの例である16)。このプロジェクトは、NIHが支援している未診断疾患ネットワーク(Undiagnosed Diseases Network, UDN)と呼ばれる戦略的な研究事業の一部になっているが、UDNは希少疾患やまだ診断がつけられていない疾患の研究を支援するNIHの戦略的なプロジェクトである17)。このプロジェクトでは、全体を統合するセンター、7つの臨床施設、2つのシーケンス施設、モデル動物を使ったスクリーニングセンター、メタボロミックスの中核施設、バイオバンクが、研究ネットワーク(UDN)で結ばれている。このネットワークで簡便なモデル動物の活用を担っているベイラー大学では、臨床部門がthe Department of Molecular and Human Geneticsと呼ばれる基礎研究部門に属している。後者は、世界的にも大規模な遺伝学施設だという。このNIHの支援事業では、簡便なモデル動物とともにマウスなどを使った研究の成果を臨床に還元しようとする、動物横断的なTranslational Researchの戦略がうかがえる18)。

図1 簡便なモデル動物とヒト由来細胞と計算モデルを統合した研究環境。計算モデルは、すべての実験系の背景にあり、さらに相互に接続されている。
他の動物のモデルとしての研究
この他に、数は少ないが、簡便なモデル動物としての特徴をうまく使った基礎および応用研究もなされている。ミツバチ(Apis mellifera)社会(コロニー)において、働きバチになるのと同じ雌の幼虫にロイヤルゼリーが与えられることで女王バチに成長する現象は、よく知られている。鎌倉昌樹はこの過程を解明し、それがロイヤルゼリーの中の一成分であるロイヤラクチンに原因することを突き止めた19)。この研究では、同じロイヤラクチンをショウジョウバエに与えると女王バエのような大きな個体となることも確認されている。
また、ショウジョウバエを蚊のモデルと見立てた研究もある。蚊はヒトや動物などの血を吸うことで多くの病気を媒介する。米国陸軍は蚊が嫌う化合物DEETを開発したが、そのヒト(兵士)への安全性には疑問があった。そこでカイン(Pinky Kain)らは、まずヒトに安全なことが知られている化学物質(天然物)のデータベースからコンピュータを使った構造活性相関的なスクリーニングで、ハエに効果的な化合物候補を複数見つけ、次に、これらの化合物をモデルとしてのショウジョウバエに実際に使って忌諱することを確認し、さらに蚊に使ったところ、効果があるものを見出せたと報告している20)。
このように線虫、ショウジョウバエ、ゼブラフィッシュは、ヒトの疾患や安全性を研究するモデル動物であると同時に、殺虫剤や忌諱物質、除草剤や非意図的に環境に拡散した人為的な化学物質の昆虫や水生動物など環境への影響をしらべるための実験動物にもなっている21),22)。
グーグルの健康長寿研究
衝撃的なデビュー以来、秘密のベールに包まれていたカリコでどのような研究が行われているかを推察させるような論文が昨年と今年、ようやく発表され始めた。昨年の論文は、線虫を用いた寿命に関する遺伝的、経路的な機序研究を踏まえた仕事である23)。それは加齢研究を統括する副社長であるケニヨン(Cynthia Kenyon)を含めた3名による研究だが、彼らの所属はカリコとカリフォルニア大学(サンフランシスコ校)にまたがっている。その仕事は、野生型より寿命が長くなることで知られているdaf-2と呼ばれる(C. elegans の)遺伝子に変異のある線虫に関するものである。こうした線虫は寿命が長くなるが、死に至る時期になると著しい老衰症状を示す。彼らは、その原因が餌として与えられる大腸菌が腸内にコロニーをつくってしまうためであり、その障害を(例えば死んだ大腸菌を与えることで)取り除くと、最後の時期の老衰症状を改善できる、と報告している。こうした知見は、我が国を含む先進国で課題になっている、いわゆる健康寿命の改善に繋がる可能性があるというのが結論だ。ケニヨンは、線虫をもちいた寿命に関わる遺伝子と経路研究の先駆者として著名である24),25)。だからこの研究は、彼女のこれまでの研究の継続という趣がある。
ところが今年になってeLife誌に発表されたもうひとつの仕事は、ハダカデバネズミ(Naked mole-rat)を使った健康寿命に関する研究だった26)。その骨子は、小型のげっ歯類としては異例の30年も生きうるこの動物に関する過去の研究記録を精査して、「この動物は年齢を重ねても死亡率が減少しない(つまり健康を保っている)ことを見出した」、というものである。この報告には、ケニヨンの名前はなく、所属がカリコだけの3名の共著になっている。そのうちの一人であるビュフェンシュティン(R. Buffenstein)は、30年以上、このネズミをモデル動物することに尽力してきた研究者である。ということは、この動物を長寿研究の材料としようと頑張ってきた彼女をカリコがスカウトしたと想像される。
健康長寿研究とがん研究が、分子レベルで重なることを示唆している報告は多い。そのためか、カリコはがん研究者として著名なバロン(Hal Baron)もスカウトしている。ジェネンテックに在籍していた彼は、同社がロッシュに買収されたことでロッシュのCMO(Chief Marketing Officer)になっていた。だが彼はカリコからグラクソ(GlaxoSmithKline)にリクルートされている。がん研究自身が猛烈な勢いで進歩している現在、健康長寿研究を介してのがん研究では、回り道だとバロンは考えたのかもしれない。
いずれにしても、ようやく論文が発表され始めたカリコの活動に比べると、ベリリー(Verily)社のベースライン研究の狙いは理解しやすい。同社のサイトでは、“Project”として同社が取り組んでいる計測(Sensors)、介在法(Interventions)、健康事業のためのプラットフォームと道具の開発(Health Platforms & Population Health Tools)、精密医療(Precision medicine)という、4つの事業区分が紹介されている5),6)。ベースライン研究はそのうちの精密医療に含まれている。これらの事業は、これまでの(日本では保健制度下にある)医療だけでなく、疾患の予防や(英語ではWellnessと呼ばれる)健康状態の維持への努力を含む、ヘルスケアの全体を包括している。
そうした事業のひとつとしてのベースライン研究は、「健康だということがどのような状態か」を計量的に把握することをめざしている。具体的には、個人の健康状態を数量的に把握すると同時に、そのような状態がどのように様々な疾患(病気と呼ばれる)状態に推移していくかを、これも数量的に把握することをめざしている。そのために最初は千人、最終的には一万人の一般の生活者の経時的なデータを4年間集めることが目標にされている。この研究事業には、スタンフォード大学やデューク大学(の医学部)も参加している。そこでは、とくにがんと循環器(心血管)系の疾患が対象にされている。
ベリリー社の研究事業のPrecision medicineという事業区分には、PrecisionMedicineInitiativeという事業が含まれている。そこでは「NIHが展開している“The All of Us Research Program”という研究事業に協力する」という趣旨のことが書かれている。わかりにくいが、このNIHの研究事業は、オバマ前大統領の名前を冠して使われることの多い「精密医療(Precision Medicine)」計画の後継事業である。つまりNIHが資金援助をしている「ゲノム医療研究のために一般の市民100万人を参加さ せるコホート研究“Precision Medicine Initiative® Cohort Program”」を、(トランプ対策のため)その名称だけを変えて実態を継承した事業のようである。
以上は氷山の一角に過ぎない情報に基づいた分析である。それでもグーグルが、簡便なモデル動物を使った健康長寿に関わる分子生物学的な基礎研究と、多様な生活者を対象にした健康状態に関わるベースライン研究とを、並行して進めていることがうかがえる。また後者に関しては、簡便な計測や分析機器による経時的なデータ収集と解析が基礎になっている。さらに個別の課題では、いろいろな製薬企業がそれぞれに協力しているようである。一般の薬づくりの研究は、こうした両極的な研究領域の間で展開されている。だがグーグルの健康長寿研究も、薬づくりの視点からは夜明け前の状況にあるようだ。
次なる研究領域と研究戦略
分子生物学を基盤とした生物医学研究では、生命を理解するという基礎科学の目標と、疾患の機序を分子レベルで理解して医薬品を開発するという応用の目標とが、常に絡み合っている。簡便なモデル生物やモデル動物からは、生物の基礎的な現象の多くが発見され、それらは応用技術に進化している。したがって生物学としての基礎研究とTranslational Researchのいずれに、またどのように研究資源を振り向けるかは難しい判断になる。
大手の製薬企業はある時期(1970年代)まで、基礎的な研究にも関心を示していた。だが、国が大きな研究資金を大学や公的研究機関につぎ込むようになってからは、薬の標的探索につながるような基礎研究は、大学(アカデミア)やスタートアップ(ベンチャー企業)に任せるようになってきた27)。その傾向は我が国でもみられる。
しかし簡便なモデル動物あるいは、マウスなどを含めたモデル動物一般を使った研究やヒトを代替する試験の信頼性や有用性については、常に厳しい批判がある28)。それはマウスについても言われているが、とくに簡便なモデル動物の場合は、(超)小型のヒトではありえず、特定の疾患研究に向いた病態モデルをつくることも難しいところがある。ある化合物の作用を評価する場合でも、ヒトと簡便なモデル動物とで同じフェノタイプをしらべればよいとは限らない。同じことは、ヒトのiPS細胞やそのオルガノイドを使った実験についても言える。そこでは結果を適切に翻訳、解釈する基盤知識が必要になる。
その基盤知識になるのが、それぞれの動物に関するゲノム、遺伝子、遺伝子発現、タンパク質、代謝物、それらを結ぶ経路網のような分子レベルの知識と、組織や器官に関する相似と相違に関する蓄積されたデータや知識である。ゆえにICTの戦略的な活用が前提になる。健康長寿(anti-aging/healthy aging)研究は、そのような研究戦略が必要な領域である。
簡便なモデル動物とICTを活用した健康長寿研究という視点から注目されるのが、EMB(L欧州分子生物学研究所)の下部組織であるバイオインフォマティクス研究所の(英国の)バイオインフォマティクスグループの取り組みである。彼らは最初(2011年)加齢研究のための計算生物学の基盤環境を構築したと発表していた29)。その後、モデル生物の研究成果と計算技法を組み合わせた、抗加齢薬をドラッグリポジショニングとして探索する研究が発表された30)。この研究グループは、薬づくりのための化合物に関わる総合的なデータベース(ChEMBL)の開発でよく知られており、そのリーダーの一人はバイオインフォマティクスではよく知られているソーントン(Janet M. Thornton)である。
彼らは生物と化合物にまたがる豊富なデータと知識ベース環境を駆使して、既知の薬候補化合物とそれらの様々な動物での結合部位に関するランクづけを試みた。そのためにケモインフォマティクスの技法、例えばリピンスキー(Lipinski)のRule of Fiveが使われ、抗加齢効果のありそうな既知の薬候補化合物が選択された。これらを簡便なモデル動物である線虫とショウジョウバエで実証実験する、というのが彼らの研究シナリオである。このような抗加齢研究を踏まえた(サイエンス)ビジネスが、加齢に関わる遺伝子が発見され始めた1990年代から立ち上がってきた31)。その魅力のひとつは、そこで見つかってきたカロリー制限や医薬品などの介在法が、先進国に共通する非感染症である主要な疾患一般、とくにがん、代謝性疾患、アルツハイマー疾患などの予防や治療につながる可能性がありそうに見えることだ。
酸素の毒性に対処するNrf2/SKN-1経路
抗加齢研究とならんでモデル動物の効用が認知されつつあるのが、抗酸化作用に関わる動物のセンサー回路Nrf2/SKN-1に関わる研究である。Nrf2はダイオキシンの受容体として知られているAhR(Aryl Hydrocarbon Receptors)やメタボリックシンドロームに関係した核内受容体(Nuclear Receptors)と共に、生体が外からとりこむものやエネルギーへの応答に関係した受容体である。普段はKeap1と結合して核の外にあるが、標的となる化合物と結合すると、核内に移行してDNAの特定の部位であるARE(Antioxidant Response Element)と結合し、第II相の薬物代謝酵素遺伝子群の発現を促進する。それらの酵素は、フィードバック的にKeap1/Nrf2がキャッチした細胞外からの異物に対処する32)。こうしたフィードバック回路とその構成要素は、最初マウスやヒトで発見されたが、その後、ホモログが線虫でも同定された33)。それがSKN-1である。類似の受容体と回路はショジョウバエやゼブラフィッシュでも発見されている。
現在、Nrf2は菌類から後生動物にいたる多様な生物種の大気中の酸素への安全装置として進化したという説が出されている34)。またNrf2は、健康食品成分、疾患、安全性(毒性)、すなわち食、薬、毒という健康に関わる3つの領域に関係している重要な経路網の中核メンバーと認識され、薬づくりと健康と安全性研究の3面から研究が進められている。かくして、この領域でも簡便なモデル動物の有用性が理解されるようになってきた。
ICTの活用
現在、機械学習や人工知能あるいはもっと一般的な計算機による自動化技術やロボットを生物医学研究に活用することに関心が高まっている。簡便なモデル動物はICTの活用、簡単に言えば自動化技術研究との相性がよい。この意味では生物医学研究全体の生産性向上に貢献するところが大きい8),35)。
私たちは1980年代のはじめに、線虫を用いた化合物のスクリーニング実験を行っていたが個体(匹)数や行動(プレート上の虫の運動の軌跡)をテレビカメラと計算機で捉えることを試みていた。同時に、線虫の初期胚発生過程を光学(Nomarski微分干渉)顕微鏡で観察し、その映像をディジタル画像として蓄積し、細胞の核の3次元的な位置を同定して、初期胚を構成する細胞の3次元集合体を分子グラフィックスの技術を転用してモデル的に表現することも試みていた36)(図2、3)。その後の計算機や撮像技術の進歩が目覚しかったこともあって、同じような試みの多くは、すでに商品になっている。

図2 線虫胚発生の4D追跡システム。光学的な断層像を重ね合わせ(3D)それを時間軸で並べる。

図3 3世界モデルに対応した初期胚発生過程の動画モデル。胚全体を任意の角度から観察でき、さらにその中の特定の細胞を選択すれば、その細胞内の経路網データにアクセスできる。
このような研究開発の効用のひとつは、実験家と臨床家とICTの専門家との相互理解の場を提供できることだ。すでに生物医学研究も薬づくりの研究もヘルスケア(サービス)も、ICTを含む専門を異にする研究者たちのチームとしての相互理解と協力なくしては効果的、効率的に遂行できない時代に突入している。その意味でヒトやげっ歯類以前の、簡便なモデル動物を使った研究や教育は、コラボレーションと人材養成のよい機会になっている。
実際カリコも一時、スタンフォード大学のAI研究のスターだったコラー(Daphne Koller)をスカウトしている。またソーントンらEMBLの英国のバイオインフォマティクスグループの取り組みは、簡便なモデル動物研究とバイオインフォマティクスおよびケミカルインフォマティクスとを結びつけた、医薬品開発として30)は先端的な研究スタイルの事例と言える。さらに蚊の忌諱化合物探索のカインらの仕事も、計算機による構造活性相関と簡便なモデル動物を使った融合研究の一例である20)。また英国のマンチェスターでは、ショウジョウバエを使った生物学教育の普及事業が行われている37)。我が国でも、簡便なモデル動物とICTを組み合わせた先端的な研究や、人材養成に関わる試みが、もっと議論されてもよいのではないか。
おわりに
モデル生物、とくに簡便なモデル動物は、かつては発生における細胞の全系譜の決定や神経系の全回路(つながり)を同定しようというような研究で、分子生物学の新しい領域を開拓する先進的な役割を担っていた。しかし、それらはもはや生物医学の特別な研究材料ではなくなった。いまや、いくつかの簡便なモデル動物を使った、ゲノムから遺伝子やRNAやタンパク質や2次代謝物、さらには経路網の同定に関わる研究は、生物医学研究全体の基軸となった。また、モデル生物あるいはモデル動物とヒトとを対比しながら解析していく手法も、生物医学研究で当たり前になっている。それと共に、迅速かつ低コストでゲノムの精密解析が可能という長所を生かした(フェノタイプ)スクリーニングが、薬づくりや抗酸化や抗加齢や健康寿命の延長をめざした研究で広く行われるようになっている。さらにそうしたデータをデータベースに整理して、統合的な視点で解析する研究も広く行われており、そこでは機械学習を含む多様なAIあるいは解析技法が駆使されている。
簡便なモデル動物を使った次の戦略的な研究領域は、ゲノム編集やダイレクトリプログラミング技術などを駆使した動物のデザインであろう。ここには、細胞の運命決定機構と制御という、進化と発生に関わる生物学の基本課題が含まれている。また再生医療という応用への期待もある。だがこのテーマは、新しい個体を(人為的に)デザインするという、生命体創造技術Genesis Technologyに行き着く。そうした研究には安全性や倫理面に関わる幅広い議論がなされる必要がある。ここでも簡便なモデル動物の役割が期待される。
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神沼 二眞 氏
1940年神奈川県に生まれる。国際基督教大学、イェール大学、ハワイ大学に学ぶ。物理学でPh.D.(博士号)。1971年から、日立情報システム研、東京都臨床研、国立医薬品食品衛生研究所に勤務。パターン認識、医学人工知能、医療情報システム、生命情報工学、化学物質の安全性などの研究に従事。1981年には理論的な薬のデザインなどをめざす産官学の研究交流組織(現在のCBI学会)を設立。その後、広島大学および東京医科歯科大学で学際領域の人材養成に当たる。2011年にNPO法人サイバー絆研究所を設立。