「たった1つの変異が運命を変える ― ヘモグロビンの物語」(第2回)
巨大な分子、ヘモグロビンの精巧なつくり
血液が赤いのは、赤血球の中に「ヘモグロビン」というタンパク質がぎっしり詰まっているからです。これは酸素を全身に運ぶ、まさに生命維持の要となる分子です。
その構造を見てみましょう(図1)。
ヘモグロビンは、よく似たアミノ酸配列を持つ2種類のタンパク質(α鎖とβ鎖)が2つずつ、計4つ組み合わさってできた巨大な複合体です。分子量は約66,000にもなります。
それぞれの鎖には「ヘム鉄」が含まれており、ここに酸素が結合します。4つのパーツが協力し合うことで、効率よく酸素をキャッチ&リリースできるのです。

リボンモデル、PDB ID: 1A00。2本のα鎖、2本のβ鎖(青、赤紫)の4つのサブユニットからなる。ヘム鉄が各サブユニットに1個ずつ配位している。黄色で示したβ鎖の6番目のアミノ酸は、健常人ではGluだが、鎌状赤血球保因者ではValに変異している。
たった1箇所の「暗号」の違いが……
ところが、この精巧なヘモグロビンの設計図(遺伝子)に、ほんの少しの書き間違いが起こることがあります。
「鎌状赤血球貧血」という病気を持つ人のヘモグロビンを調べると、β鎖を作っているアミノ酸配列のうち、たった1箇所(6番目のグルタミン酸 Glu)が、バリン(Val)に入れ替わっていることが分かりました。
何百個とつながるアミノ酸のうち、たった1つが変わっただけです。
しかし、この小さな変化が、タンパク質の性質を劇的に変えてしまいます。
形を変える赤血球
6番目のアミノ酸がバリンに変わると、酸素が離れた時にヘモグロビン同士がくっつきやすくなり、長い繊維状の構造を作ってしまいます。
すると、本来は柔らかい円盤状だった赤血球が、内側から棒で突っ張られたように歪み、硬い「鎌(かま)」のような形になってしまうのです(図2)。

(Geminiにより生成、改変。変異を持つヘモグロビンにより、赤血球が鎌状に変形している様子。)
こうなった「鎌状赤血球」は壊れやすく、重度の貧血を引き起こします。これが、分子レベルの変異が目に見える病気として現れる仕組みです。
捨てられなかった「変異」の理由
重い貧血を引き起こす遺伝子は、本来なら自然淘汰によって消えていくはずです。しかし驚くことに、この変異遺伝子を持つ人々の分布は、「マラリア」の流行地域(アフリカや南アジアなど)とほぼ一致するのです。
マラリアは、蚊が媒介する原虫が赤血球に寄生して高熱を出す、命に関わる感染症です。
実は、鎌状赤血球は壊れやすいため、赤血球の中で増えようとするマラリア原虫ごと壊れてしまいます。つまり、鎌状赤血球を持つ人は、マラリアに対して強い抵抗力(耐性)を持っているのです。
進化が選んだ「適者生存」の戦略
遺伝子は父と母から1つずつ受け継ぐため、私たちは同じ遺伝子のセットを2つ持っています。
この地域では、片方の遺伝子が正常で、もう片方が変異型である場合、「日常生活には支障がないレベルの血液」と「マラリアへの耐性」の両方を手に入れることができます。
異常ヘモグロビンは確かに病気の原因ですが、過酷な環境を生き抜くために人類が獲得した、ある種の「優れた変異」とも言えるのです。
アミノ酸配列の一つ一つには無駄がなく、長い年月をかけた自然淘汰の結果として、そこに存在しています。
次回は、「遺伝子の『先』にある世界 ― 巧妙な構造変化と機能のスイッチ」と題して、アミノ酸配列が決まった“後”に起こるドラマに迫ります。
タンパク質はただの紐ではありません。環境や修飾によって精巧かつ巧妙にその「かたち」を変え、全く新しい機能を獲得することさえあるのです。
遺伝子の暗号だけでは決して計り知れない、タンパク質のダイナミックな構造変化と、それに伴う機能のミステリーを探検しましょう。


